法話集

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霜月会
 
 十一月二十四日は「霜月会(しもつきえ)」と呼ばれており、天台宗の大きな行事の一つであります。「霜月会」の霜月というのは、昔の月の呼び方で、一月を睦月(むつき)、二月を如月(きさらぎ)、三月を弥生(やよい)というように、十一月を霜月と言います。
 この月の二十四日は、中国で天台宗をお開きになった天台大師智顗(ちぎ)様のご命日に当たり、日本においては、比叡山延暦寺を中心に、天台宗の殆どの寺院で天台大師智顗様に対しまして、報恩感謝の意味を表す法要が営まれる日であります。
 これは、「天台会」とか「大師講」ともいわれ、我が宗にとって大変重要な行事、法要なのであります。
 この法要は、伝教大師最澄様が、今の根本中堂の元となる一乗止観院で、奈良の七大寺から高僧を招いて「妙法蓮華経」の内容について講義をしたことからはじまっているのであります。
 ところで、この天台大師智顗様とはどんなお方かと申しますと、中国の大同四年、西暦五三八年にお生まれになり、七歳の時からお寺参りをし、妙法蓮華経の中の観音経〈観世音菩薩普門品第二十五〉を一遍で 暗唱できるようになったといわれるほどの秀才でした。十八歳で出家、所謂僧侶となられ、特に「妙法蓮華経」というお経の研究と実践に専念され、ついにこの「妙法蓮華経」によって悟りを開かれたのであります。
 そして、一般の人々は勿論のこと、天子を始め、高位、高官の人々まで、皆、大師の教えを聞くことを楽しみにしていたといいます。
 しかし、天台大師は、多くの人々に法を説くことも大切ではあるが、まだまだ自分の修行も必要であったため、天台山という山に入り、僅かな木の実を拾って飢えを凌ぐことすらあったということです。これを聞かれた天子は、衣食、その他の生活費を与えられました。また、仏道を究めようとする者が、天台大師様を頼って集まり、お寺の様子もすっかりかわってしまうほどの信頼を得るようになりました。
 天台大師様は、西暦五九七年、十一月二十四日、六十歳でお亡くなりになりました。
 その時から約一千四百年経た今日、そのご命日の法要が毎年確実に営まれていることは、天台大師様が如何に偉大なお方であったかを物語っています。


お十夜
 
 「お十夜」というのは、十月六日から十五日までの十日間に、阿弥陀様が衆生を救済して下さるご恩に対しての感謝の法要であります。それが丁度十日間行われていたので「お十夜」と言った訳ですが、最近では段々と十日を五日に減らしそれを三日に減らし、ついには一夜だけとなり、一心不乱に心を込めて念仏を行うようになってきた所が多いようです。
 この行事を行うようになったのは、お経の中に、「十日十夜、善行を積めば、他の仏を千年拝むより効果がある」と書かれてあり、また別のお経の中にも、「若し南無阿弥陀仏の名号を十日十夜にわたって念仏三昧に精進すれば、阿弥陀様を見ることが出来るであろう。また、必ず安楽国に往生出来るであろう」と書かれております。
 したがいまして、この行事は、十日十夜の間、念仏の修行をすることによって極楽浄土に往生することを願うためのものであります。
 この法要は、日本において始められたもので、白河天皇(一〇五三〜一一二九)の時、即ち、今から九百年ほど前に始まったもので、恒例の法要となったのは、室町時代からであります。京都の真如堂(真正極楽寺)において行われたのが最初であるといわれております。
 京都の真如堂は、天台宗の寺院で、天台宗系に伝わったのは勿論のことでありますが、阿弥陀様におすがりするということから、むしろ浄土系の寺院で全国的に盛大に行われるようになりました。
 そして、この法要は、都会では日中だけで終わる所が多いようですが、農村地域では、今でも「お篭もり」といって泊まり込んで行う所もあり、「十夜婆々」という言葉があるように、老婆や中年のご婦人の方々が多いようです。更に、この時期には、新米も収穫していますので、新米や、秋の実りの物を仏前に供え、大勢で持ち寄った食べ物を、皆で食べあう習慣もあります。また、供えられた穀物でお粥を作って食べ、楽しく過ごす地方もあるそうで、これを「十夜粥」と呼んでおられるそうです。
 京都真如堂でのお十夜は、その法要期間中に、門前で蛸(たこ)を売り、これを食べると疫病から逃れられるという言い伝えから、「蛸十夜」と言われ有名であります。
 何れにいたしましても、十月の十日十夜、阿弥陀様のお念仏を唱えたところから「お十夜」の行事が起こり、続けられているのです。


お供え
 
(問)仏さまにはなぜお灯明やお花をお供えするのですか。

(答)仏さまをお祀りする時、「香華灯塗(こうげとうず)」と言って、お香をたき、香を塗ってお花を供え、お灯明(とうみょう)をつけてお祀りするのが通例となっております。これは昔、インドでお客様をご接待する時の作法からきています。インドでは貴人をご接待する時に、お客さまが家に着かれると、まず、きれいな香水でその汗を流し、身体に香を塗ってさしあげます。インドはとても暑い国なのでそうするのです。香を塗ると気持ちが落ちつき、リラックスします。お客さまに爽快な気分になっていただくということと、消毒や害虫から身を守るという意味ももっています。次に季節のお花で髪かざりをつくり、お客さまの身体に飾ってさしあげます。そしてお客さまの身支度が整ったら、ご馳走をしてもてなすのが本式の接待の作法になります。
 菩薩の修行法である六波羅蜜(ろくはらみつ)では、香は精進波羅蜜(しょうじんはらみつ)、華は忍辱波羅蜜(にんにくはらみつ)、灯明は智慧波羅蜜(ちえはらみつ)にたとえられています。精進とは、目標に向って最後まであきらめずに、一生懸命努力することをいいます。火をつけたお線香は最後の最後まで燃焼し、そのさまは精進波羅蜜に通じます。人は花を見ると「きれい」「美しい」と心がなごみ自然と落ちつきます。これは柔和忍辱(にゅうわにんにく)の姿ですから、忍辱波羅蜜に通じます。灯明は仏さまの光、智慧を意味します。悩みや欲といった煩悩の闇をこの智慧(ちえ)の光が照らし、あかるくしてくれるところから智慧波羅蜜に通じます。
 お寺参りやお墓参り、自宅のお仏壇等、お参りをする際には、香華灯塗をおあげしてお参り下さい。 


身・口・意の三業を浄めよ
 
 道路を歩いていると、突然、犬が吠えて襲いかかってきた。とっさに道端に落ちていた石を拾って投げ付けました。
 さて、ここで問題です。
 投げ付けた石と、拾う前に道端にあった石は同じか、同じでないか。
 これは『生物から見た世界』という本に出ていた問題です。
 道に落ちていた石を拾って投げたのですから、同じ石に決まっています。道にあろうが、手の中にあろうが、石に変わりはありません。成分も形も重さも何ら変わっていないはずです。ところが石は大いに変化しているというのです。
 では、どこがそんなに変わったのでしょう。それは、石という存在の意味がすっかり変わってしまったのです。つまり、路傍(ろぼう)の石が犬を追い払うための武器になったのです。科学的には同一であるのに、存在の意味が変化したのです。その変化の主な原因は石そのものにあるのではなく、その石を取ろうとした人間の側にあります。人の心が、人の行いが、科学的には同一であった石に変化を与えたといったらよいでしょうか。
 このような人間の行いを身・口・意の三業(ごう)といいます。身体的な行いと、ことばで表す行いと心に思う行いのことです。そして、この三つの行いを浄(きよ)めよと仏教は教えています。
 浄めるとはどういうことでしょうか。その三業の行動が自己中心のわがままになっていないか、こだわりや執着がないか、欲望はコントロールができているか、他人を傷付けていないか、常に反省することではないでしょうか。
 そしてこの三業はそれぞれの行いだけでなく、その行いによってもたらされる結果をも含んでいます。よきにつけ、あしきにつけ、私たちのこの三つの行いは、結果として自分を含めたさまざまな存在の意味づけをするのです。


施餓鬼会(せがきえ)
 
 東京では七月、盂蘭盆を行い、その前後に「施餓鬼会」を行いますが、「施餓鬼会」というのは、餓鬼〈弔う者のない無縁の亡者〉のためにいろいろな種類の飲食を施す法会で、「施食会」ともいいます。
 本来「施餓鬼会」というのは、別に期日を定めずに随時行う法会でありますが、いつの頃からか盂蘭盆会と同じように考えるようになり、東京方面では七月のお盆の頃、他の多くの地域では八月のお盆の頃に行います。
 施餓鬼会の起源については、インドでお釈迦様が説法している時、十大弟子の一人に「阿難(あなん)」というお方がおられました。この方が、ある晩、静かな所で修行をしていますと一人の餓鬼が現れました。その姿は醜く、痩せていて、口からは火を吐き、喉は針のように細く、腹は異常に脹れていて、髪の毛は乱れ、爪は鋭く、それはそれは恐ろしい形相をしていました。そして、食べ物を食べようとして口へ運びます。そうすると食物は火となって食べることが出来ず、絶えず苦しんでいます。その餓鬼が来て、
 「お前は三日以内に死んで餓鬼道に墜ちるだろう。」
といったのです。それを聞いた阿難は大変に驚き、早速お釈迦様にそのことについて相談いたしました。
 するとお釈迦様は、
 「十万の僧を供養せよ。」
とのお教えでした。阿難は多くの僧侶を集め供養しました。三日以内に死ぬといわれた阿難は、その供養の功徳により長寿を得ることができたといいます。このように、阿難が供養したことから始まった法要と言われております。
 その作法などは宗派によって、或は地域によって多生異なりますが、一般には道場の外側の方に供養壇、即ち施餓鬼壇を設け、五色の幡(はた)にそれぞれ如来の名前を書き、この壇の回りに懸け、壇上には「三界万霊」と書いた大きな位牌を安置し、食べ物やお水をお供えするのであります。
 また、水死した人のために、川の中に船を浮かべ、或は水辺で施餓鬼法を修し、お供え物を流したり、紙で作った小舟を流したり、船形の灯篭を流したりして、水死した人ばかりでなく、その年に亡くなられた方々の霊、或は三界万霊に供養を営む寺院などもあります。
 始め、延命・長寿の法要であったものが、何時しかお盆と一緒に行うようになりました。


対機説法
 
 聞き損いは、言い手の粗相。
ということわざがあります。
 私たちは、話し手の真意を正しく理解することができず、つい誤解してしまうことがあります。あるいはまた、いくら言ってもなかなか聞いてもらえずヤキモキすることがあります。
 「あんなに口を酸っぱくして言ったのに、全然言うことをきかない。」
 「こんなに心配していったのに、どうして私の言うことがわからないの。」
と、腹立たしく思うことがあります。
 私たちは、自分の言ったことがその通り相手に伝わらない時、聞き手の聞き方がわるいといって責めたりしますが、果たしてそうなのでしょうか。話し手の方に問題はないのでしょうか。
 聞き損いは、言い手の粗相。
 聞き手が正しく理解しないのは、言い手の方に問題があると思った方がよさそうです。
 仏教は、「対機説法」だといいます。お釈迦さまがそうでした。お釈迦さまが説法されるときは機をみて法を説いたといいます。機とは法を説く相手のことです。その人の人格、年齢、教養、性質、まわりの環境、それらをよく知った上で、その人が理解できるように法を説いたのです。だから、心の底に教えがおさまったのでしょう。
 一方的な言い方ではなく、まず相手を理解する。その中にことばの交流はあるのでしょう。


依身(えしん)より依所(えしょ)
 
 今から一千二百年前、比叡山を開かれた伝教大師最澄上人は「六根相似(ろっこんそうじ)の位を得ざるよりこの方 出仮(しゅっけ)せじ」という言葉を残して、敢然(かんぜん)と比叡山に籠もり修行に明け暮れました。六根相似とは、見たり聞いたり、考えることなどが、ほとんど仏さまと同様になることです。すなわち六根が清浄になることです。出仮とは、山から下りて社会に出て僧侶として働くことです。このようにして比叡山で厳しい修行をした最澄上人は、なぜ修行の場に比叡山を選んだのでしょうか。その理由のひとつに、中国のお釈迦さまといわれた天台大師の修行の指南書(しなんしょ)『摩訶止観(まかしかん)』の中に「閑居静処(げんごじょうしょ)・息諸縁務(そくしょえんむ)」などと書かれているところがあげられます。人里離れた静かなところで、社会的つながりを一時的に断って、集中的に修行することの大切さを説いているのです。そして比叡山について最澄上人は次のような歌を詠んでいます。
 「おのずから住めば持戒のこの山は、まことなるかな依身より依所」
修行には自分自身が正しくあろうとすることが大切であるが、それよりも修行をする環境がもっと重要であることが、修行を通じてはじめてわかる。この比叡山とはまことにその修行にふさわしいところで、住んでいるだけでおのずから戒律を守ることができ、六根が清浄になるところだ。
 という意味です。
 先頃世界遺産に登録された比叡山は、一千二百年の間その伝統を脈々と伝えてきたことが高く評価されました。その森厳な環境があってこそ、はじめて仏教の母山としての面目が保たれてきたのでしょう。人間だけがひとりよがりで頑張ってみても、おのずから限界があることがわかり、私たちを取りまく環境は、私たちの鏡でもあるのです。環境が荒れていることは、すなわち私たちの六根に異常を来たしていることを意味します。この厳しい警告を謙虚に受けとめ、私たちを育んでくれる環境に改めて深い想いをめぐらそうではありませんか。


“ご利益”
 
 お寺の門前のおじいさんは、まもなく八十歳になります。息子さん夫婦も五十歳、お孫さんが四人もおります。やさしい家族にも恵まれて何不自由のない身の上です。
 しかし、おじいさんには仕事があります。毎朝早起きをして、お寺の参道のお掃除をしているのです。草を引いたり、竹箒(たけぼうき)でそれはそれは綺麗にお掃除をするのです。秋になると、大変です。落ち葉が沢山散るのです。大きな落ち葉の山がいくつも出来上がります。冬は冬で雪かきをします。参道が長いので、八十歳のお年寄りには大変な労働です。それでもおじいさんはここ数年、一度も休んだことがないのです。おじいさんは健康です。病気などしたことがありません。機敏に動き回る姿は若々しくさえ感じられるのです。
 この朝の仕事は無料奉仕です。お寺のお坊さんも、檀家の人たちも気の毒がってお手伝いを申し出るのですが、おじいさんは「私の仕事を取らないでください。」といって強力におことわりをするのです。お坊さんも檀家の人たちも、大変感謝をしているのですが、おじいさんはそんなことには無頓着で、ただ黙々とお掃除を続けているのです。
 ある朝、お墓参りにきたおばあさんが、お掃除をしているおじいさんに尋ねました。「おじいちゃん、毎朝お寺のお掃除をしていたら、仏さまに沢山ご利益をいただけるんでしょうね。どんなご利益がありましたか?」おじいさんはお掃除の手も止めずにすぐ答えました。「わしゃこうして毎朝お掃除ができるのが一番のご利益だと思いますわい。だいいち病気になったらできませんよ。毎朝元気に起きられるのが最高のご利益です。それに家族にも恵まれて、息子の嫁が必ずいってらっしゃいと箒をさしだしてくれます。これもご利益ですよ。それから、わしはもう家の事など何の心配もいりません。お掃除でもしてないとヒマをもてあましてしまいます。人さまに喜んで貰えることをさせていただける、これこそ生きがいです。阿弥陀さまに感謝しています。南無阿弥陀仏です。」というと、おばあさんは「なるほど」と思いました。そして自分の立場も同じなのに、このようなことに気付いているおじいさんが、うらやましく思いました。おじいさんは黙々とお掃除をしています。その姿におばあさんは思わず「南無阿弥陀仏」とつぶやいていたのです。


“間抜け”
 
 辞典で調べてみますと、「間抜け」とは「間の抜けたこと。物事の大事な点が欠けていること。またその人」で、「間」は「何かの間にはさまれた空間や時間。事をうまく運ぶ上での大切なころあい」とありました。
 人のことを人間ともいいますが、「人間」を調べますと「もともと人と人の間柄の意で、他の人と共になんらかの拘わりを持ちながら社会を構成し、何ほどかの寄与をすることが期待されるものとしての人」などとありました。
 私たちの命は、実に多くのご先祖様や生きとし生けるものたちとの拘わりあいの中で維持され、未来へと引き継がれていきます。
 皆さんもそれぞれの人生の中で幸福を求め、安心できる環境を望み、精進を重ねていらっしゃることでしょう。
 その過程において重要な事は、個人個人が他の人やあらゆる命との拘わりあいを広く、深く、慈しみも持ちながら、その関係を正しく理解し、意志や感情の疎通をはかることであり、それは必要不可欠な事なのです。
 それが間であり、コミュニケーションなのです。
 人は死出の旅に出るときはひとりですが、この世に生があるうちはひとりでは生きられません。この至極あたりまえのことすら、私たちは忘れてしまいがちなのです。
 そうなることを防ぐためには、周りとの関係を再認識しなければなりません。それが懺悔(さんげ)であり、安心(あんじん)を得るための精進への起点となるのです。そうでなければ、文字通り間が抜けてしまい、自分勝手な人となってしまうのです。
 最後に、私が読んだ本の中の一節で、イギリスの神学者ジョン・ウェズリーさんが記された「行動の基準」の中にある名文をご紹介させていただきます。
    君ができる限り
  「君ができるすべての善を行え、
   君ができるすべての手段で、
   君ができるすべての方法で、
   君ができるすべての場所で、
   君ができるすべての時に、
   君ができるすべての人に、
   君ができる限り」
 私たちは凡夫ではありますが、せっかく人間として生を受けたのですから、少しでも自分の人格を磨き、人のために尽くし続ける『人間』でありたいものです。


七福神
 
 七福神という神は、もともとインド、中国、日本の三か国の七人の神が組み合わさって、人々に福、徳、寿などを与える神々として生れました。
 この七福神の信仰を世の中に弘めたのは、江戸時代の初めに上野の寛永寺を開いた天海大僧正だといわれています。大僧正は家康公に対し「公はこの乱世を治め、天下泰平の基(もとい)を築く福徳を備えている」と述べ、合せて七福神のもつ七つの福徳を書いて示しました。
 すなわち、寿老人の寿命、福禄寿の人望、恵比寿の正直、布袋(ほてい)の大量、毘沙門天の威光、大黒天の財富、唯一の女神である辨財天(べんざいてん)の愛敬(あいきょう)という訳です。家康公はこれを見て大いに喜び、すぐに狩野探幽(かのうたんゆう)に命じてこの七福神の画を描かせました。これが今日わたしたちがよく見かける七福神の画の最初だといわれています。もっとも、今日のように七福神信仰が盛んになったのは、江戸時代の後期の一八00年代に入ってからのことと考えていいでしょう。
 ところで、「仁王般若経(にんのうはんにゃきょう)」というお経には、「七難即滅(しちなんそくめつ)、七福即生(しちふくそくしょう)」と説かれています。七難は、薬師経や観音経にも説かれていますが、例えば火難、水難、盗賊難などの七つです。この七難を消滅すれば、七福が生(しょう)ずるという訳です。実はこのお経の文句にあやかって、七福神の信仰が生まれたのです。では、その七福神とはどんな神様なのでしょうか。
(一)まず長寿をあらわす寿老人は、白髪の円満なお顔の老人で、よく傍(か
   たわら)に鶴と鹿が描かれます。この神は南極星が神格化された神で、
   人の寿命を司どるので寿星とも呼ばれています。
(二)人望をあらわす福禄寿は、長い頭をした老人で、杖(つえ)をもっていま
   す。頭と胴が相半(あいなか)ばする程の長頭は人望をあらわしていま
   す。この神もやはり南極星が神格化された神なのです。
(三)正直をあらわす恵比寿は、大黒天すなわち大国主命(おおくにぬしのみ
   こと)の子、事代主命(ことしろぬしのみこと)だといわれ、このため恵比
   寿・大黒といってこの二神を並べて祀(まつ)るのです。この恵比寿は裸
   に近い格好(かっこう)で鯛を抱え、おおらかにほほえむお姿で、まさに足
   ることを知った無欲な神なのです。天海大僧正もよく引用された古歌「事
   たらば足るにまかせてことたらす、足らずことたる身こそ安けれ」の一首
   は正にこの神の心をよんだものといえそうです。この知足(ちそく)の心は
   素直で正直な心から生れるので、この神は正直をあらわすとされました。
(四)大量をあらわす布袋は、契此(けいし)という中国の実在のお坊さんで、
   いつも杖と袋をもっていたのでこの名で呼ばれました。後には辞世の文
   句から弥勒菩薩(みろくぼさつ)の化身として崇(あが)められましたが、そ
   の大変大きなお腹(なか)から度量の広い大量の神ともされたのです。
(五)威光をあらわす毘沙門天は、多聞天(たもんてん)とも呼ばれ、もともと
   帝釈天(たいしゃくてん)の四天王の一人ですが、その武装したお姿から
   威光をあらわす神と考えられました。
(六)財富をあらわす大黒天は、もともとは武力の神でしたが、後にインドのお
   寺の台所に祀(まつ)られ、毎日油で身体(からだ)を拭(ぬぐ)われたた
   め、真黒(まっくろ)になったので大黒天と呼ばれました。わが国で
   は大黒は大国(だいこく)に通じることから大国主命と同じ神とされ、更に
   物を司どる大物主命(おおものぬしのみこと)とも同体だと考えられたた
   め、財富をあらわす神とされたのです。
(七)愛敬をあらわす辨財天は、もともとインドの河の神で、河川のせせらぎか
   ら音楽、芸能を、また「水を治める者は国を治む」ということから武力、そ
   して河川は肥沃(ひよく)な土地を造り生産物を生むことから財富を司ど
   る神〈辨財天〉ともされました。また同時にその優しいお顔やお姿から愛
   敬をあらわす神とも考えられたのです。
 わたしたちは今でもよくこの七福神が一つの船に仲良く乗った宝船の画を見ますが、そこには、わたしたちがこの七人の神々を信仰することによって、七つの福徳をこの一身にうけ、社会の荒波を無事に乗り切っていけるようにという大きな願いが込められているのです。


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