天台宗について

法話集

No.236うそも方便?

年も越して1ヶ月が過ぎました。去年は猛暑の年で紅葉も遅く、いつまでも暑い日がつづいていましたが、2月ともなれば寒さ本番!家に籠もって暖かなこたつが嬉しい季節です。

さて、そのこたつの中で最近の雑誌・新聞を読んでいると、お寺でもリモートお参り・カメラ付きで代理人がお参りするとか、お寺へ行けない代わりに電話やネットなどでお守りを購入するとか、今までお墓に行き、お参りして、直接参拝をしてお守りを頂戴する。という従来の参拝方法に対して「いいのかな?どうなのだろう?なんだかなぁ~」など違和感を覚えるサービスが、本格的にまた真面目に取り組まれ、実現し始めている記事がありました。

このリモート参拝やネット・電話によるお守りの購入について思ったのは、(この事柄に限った事ではないのですが)、物事を実現する方法を改める時は、その元となる事柄をできるだけ理解して方法を改めるべきで、当たり前という既成概念を見直す必要がある。と感じ、同時に疑問に思いながらも「お参りをしたい」という人の「想い」があるので「現代風で良いのだろうな。」とも思ったのです。

ではなぜ「どうなのだろう?なんだかな~」と違和感を覚えるのかと云えば、「行くのが面倒だから・・・楽をしたいからと云う人が必ずいる」と考えてしまうからなのでしょう。
ここに元になる「想い」と実現方法の違いが現れると思います。
この実現方法をお釈迦様は「方便」といい、「楽をしたい」と思う心を煩悩、「お参りをする」という心を「菩提心・仏心(ほとけごころ)」と云われたのでしょう。

世の中には色々な方々がいて、その考えは千差万別です。多くの皆さんにわかるように元となる事柄・行いの原点・動機を変えず、『実現方法をかえる』というのが方便の一つなのだろうと私は思います。
うそも方便と言いますが、その元の意味を知りながら取捨選択していくことが大切なのでしょう。


(文・陸奥教区 瑠璃光院 菅野 康純)
掲載日:2024年02月01日

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