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| 【願文】の中で、 「私たちの住むこの迷いの世界は、ただ苦しみばかりで少しも心安らかなことなどない。(中略)人間として生れることは難しく、また生れたとしてもその身体ははかなく移ろいやすい。」 と、世の中の無常と人間のはかなさを自覚されました。 そして、「因なくして果を得、この処(ことわ)りあることなく、善なくして苦を免がる、この処(ことわ)りあることなし。」と因果の厳しさを述べ、だからこそ生きているときに善いことをする努力を惜しんではならないと考え、『願文』の中で五つの【心願】をたてられたのです。 |
| 天台大師智顗の教えを極めたいと願い、桓武天皇の援助を受けて還学生(げんがくしょう)として唐に渡りました。中国天台山に赴き、修禅寺の道邃(どうずい)・仏隴寺の行満に天台教学を学び、典籍の書写をします。その後禅林寺の翛然(しゅくねん)より禅の教えを受けられ、帰国前には越州龍興寺で順暁阿闍梨から密教の伝法を受けられます。こうして、円密一致といわれる日本天台宗の基礎をつくられたのです。 延暦24年(805)に帰朝してすぐに、高雄山寺で奈良の学僧達に日本で初めて密教の潅頂を授けるなどして、入唐求法の成果を明らかにされました。 当時、「仏に成れるもの、仏に成れないものを区別する」という説もありましたが、最澄は、「すべての人が仏に成れる」と説く『法華経』に基づいて、日本全土を大乗の国にしていかねばならないとの願いが募り、法華一乗による人材の養成を目指しました。 ![]()
第3世座主円仁によって、延暦寺では横川(よかわ)が開かれ、東塔地区も整備されていきます。また、9年間に亘る入唐求法の成果をもとに、天台教学の中に浄土教を取り入れ、密教を拡充していくなど、その功績は多大なものでした。 円仁の没後ほどなく、貞観8年(866)、最澄には「伝教大師」、円仁には「慈覚大師」という諡号(しごう)を清和天皇より賜りました。これは日本における初めての大師号であり、最澄・円仁による天台宗の確立が、いかに日本仏教の発展に寄与したかを示すものであります。 また、第5世座主の円珍(智証大師)や五大院安然らによって密教も体系的に整備され、後に東密(真言宗の密教)に対して台密(天台宗の密教)と称されるようになりました。 その後も多くの人材が比叡山で研鑽に励み、学問も修行も充実していきます。平安時代中期には、第18世座主の良源(慈恵大師)によって諸堂の再建と整備がなされ、論義が盛んに行われて教学の振興がはかられました。さらに弟子の源信(恵心僧都)によって『往生要集』が著わされ、これが後の日本の浄土教発展の基礎となりました。 また、『法華経』や浄土教信仰などは知識人の間に浸透し、『源氏物語』や『平家物語』に代表される古典文学の底流をなしています。円仁が中国からもたらし大成した声明は、日本伝統音楽の源流となり、また能・茶道にも天台の仏教思想が深く入り込んでいるといわれています。 平安末期から鎌倉時代はじめにかけては、法然・栄西・親鸞・道元・日蓮といった各宗派の開祖たちが比叡山で学びました。こうして後に比叡山は日本仏教の母山と呼ばれるようになったのです。 時代は下り、盛栄を誇った比叡山延暦寺も織田信長の焼き討ちにあい、一時その宗勢に陰りが見えましたが、江戸時代になり徳川家康の懐刀と云われた天海(慈眼大師)によってその勢力を盛り返し、特に寛永寺は西の比叡山に対して東叡山と呼ばれ、その影響力を日本全土に及ぼしたのです。 |