宗祖・高祖・祖師・開祖
宗祖伝教大師 最澄高祖天台智者大師天台の祖師達各宗の開祖達
宗祖伝教大師 最澄

誕生
▲滋賀県米原市観音寺 蔵
 約1200年ほど前、今の滋賀県大津市坂本の一帯を統治していた三津首百枝(みつのおびとももえ)という方がおられました。子どもに恵まれなかった百枝は、日吉大社の奥にある神宮禅院に籠もり、子どもを授かるように願を掛けました。神護景雲元年(767)8月18日、願いが叶って男の子が誕生し、広野(ひろの)と名付けられました。この広野こそ、後に比叡山に登り天台宗を開かれた最澄だったのです。お生まれになったところは、現在の門前町坂本にある生源寺といわれています。最澄の誕生日には、老若男女が集い、盛大な祭が行われます。また、近くには幼少期を過ごしたとされる紅染寺趾や、産湯に使われた竈を埋めたといわれるところがあります。
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出家
 広野は、両親の深い仏教への信仰の影響もあって、12歳のとき、近江の国分寺(現在の大津市石山)に入り、14歳で得度し、「最澄」という名前をいただきました。厳しい修行と勉強に打ち込んだ最澄は、やがて奈良の都に行き、さらに勉学を積みました。そして延暦4年(785)、奈良の東大寺で具足戒を受けました。
 具足戒とは、僧侶として守らなければならない行動規範であり、250もの戒めを完備していることから具足戒と呼ばれます。
 国家公認の一人前の僧侶となった最澄には、大寺での栄達の道が待っていましたが、受戒後、故郷に戻り、比叡山に籠り一人修行を続けました。そしてすべての人々が救われることを願い、一乗止観院を建てて自ら刻んだ薬師如来を安置し、仏の教えが永遠に伝えられますようにと願って灯明を供えました。(延暦7年(788)年)
 このとき最澄は、
「明らけく 後(のち)の仏の御世(みよ)までも 光りつたへよ 法(のり)のともしび」
 と詠まれ、仏の光であり、法華経の教えを表すこの光を、末法の世を乗り越えて(後の仏である)弥勒如来がお出ましになるまで消えることなくこの比叡山でお守りし、すべての世の中を照らすようにと願いを込めたのでした。

 この灯火はこのときから大切に受け継がれ、1200年余りを経た今日でも、根本中堂の内陣中央にある3つの大きな灯籠の中で「不滅の法灯」として光り輝いています。

▲法灯
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入唐求法
 比叡山で修行を続けていた最澄は、みずから天台山に赴いて典籍を求め、より深く天台教学を学びたいと考えます。
 そこで桓武天皇に願い出て、延暦23年(804)、還学生(げんがくしょう)として中国に渡りました。当時、中国に渡るのは命がけのことで、4隻で構成された遣唐使船のうち、中国に無事たどり着いたのは2隻だけでした。到着した2隻のうちの別の船には、後に真言宗を開かれた空海が乗っていました。

▲伝教大師自筆「入唐牒」
(※画像をクリックすると拡大できます。)
 中国に着いた最澄は、今の浙江省天台県に位置する天台山に赴き、修禅寺の道邃(どうずい)・仏隴寺の行満に天台教学を学びます。その後禅林寺の翛然(しゅくねん)より禅の教えを受け、帰国前には越州龍興寺で順暁阿闍梨から密教の伝法を受けました。こうして多くの経典や法具を携えて帰国したのでした。
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天台宗の公認
 帰国した最澄は、『法華経』に基づいた「すべての人が仏に成れる」という天台の教えを日本に広めるために、天台法華円宗の設立許可を願います。その際、「一つの網の目では鳥をとることができないように、一つ、二つの宗派では、普く人々を救うことはできない。」という最澄の考えが受け容れられ、延暦25年(806)、華厳宗・律宗・三論宗(成実宗含む)・法相宗(倶舎宗含む)に天台宗を加えて十二名の年分度者が許されることになりました。ここに天台宗が公認されたのです。
 この日を以て「日本天台宗」の始まりとし、比叡山延暦寺をはじめ多くの天台宗の寺院では、この日を「開宗記念日」として報恩報謝の法要を行っています。
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布教・伝道
 天台宗が公認された後、最澄は、「国宝とは何物ぞ。宝とは道心なり。道心有るの人を名づけて国宝と為す。・・・一隅を照らす。此れ則ち国宝なりと・・・」で始まる『天台法華宗年分学生式』(てんだいほっけしゅうねんぶんがくしょうしき)(六条式)を弘仁9(818)年5月13日に天皇に奏上しました。そこには、比叡山での教育方針や修行方法などが示されています。
 また最澄は、社会教化・布教伝道のために中部地方や関東地方、さらには九州地方に出かけ、天台の教えを広めました。出向いた各地で協力を得て『法華経』を写経し、これを納めた宝塔を建立しました(六所宝塔)。加えて、旅人の難儀を救うための無料宿泊所を設けました。
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大乗戒壇
 天台宗の年分度者が認可されたあとも、正式な僧侶となるためには奈良で具足戒を受けなければなりませんでした。最澄は、『法華経』の精神に基づいて、僧侶だけでなくすべての人々を救い、共に悟りを得るためには、戒律は大乗の梵網菩薩戒でなければならないと考えて、比叡山に天台宗独自の大乗戒壇院を建立することを国に願い出ました。しかし奈良の僧侶たちの猛反対にあい、なかなか認可されないまま、最澄は弘仁13年(822)6月4日、56歳で遷化されました。その七日後、最澄の悲願であった大乗戒壇院の建立を許される詔が下されたのです。
 最澄は死に臨んで、弟子たちに「我がために仏を作ることなかれ、我がために経を写すことなかれ、我が志を述べよ(私のために仏を作り、経を写すなどするよりも、私の志を後世まで伝えなさい)」と遺誡し、大乗戒をいしずえにすることで誰もが「国の宝」になることを願ったのでした。
 最澄の命日の6月4日には、延暦寺をはじめ各地の天台宗寺院で「山家会(さんげえ)」という法要が行われています。
 嵯峨天皇は、最澄の死を大変惜しまれ、「延暦寺」という寺号を授けられました。このときから比叡山寺(日枝山寺)から延暦寺とよばれるようになりました。年号を寺号にしたのは、日本ではこれが最初です。
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大師号
 貞観8年(866)、清和天皇から最澄に「伝教大師」、同時に円仁に「慈覚大師」の諡号が贈られました。大師とは人を教え導く偉大な指導者という意味で、日本ではこれが最初の大師号です。これ以後、最澄は「伝教大師最澄」と称されるようになりました。
▲浄土院
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高祖天台智者大師

大師ご誕生
 西暦538年、天台大師は中国荊州華容(けいしゅうかよう)県に誕生されました。この年は日本に仏教が伝えられた年です。誕生の時に家が輝いたので皆から光道(こうどう)と呼ばれました。生まれた時から人並みでなく、二重の瞳を持ち、7才のころ喜んでお寺にかよい、一度『観音経(かんのんぎょう)』を聞いただけで覚えてしまったといいます。
 17才の時、父の仕える梁(りょう)の国は陳国に攻められて、大師は親族と共に流浪(るろう)の運命となってしまいました。
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大蘇開悟(だいそかいご)
 18才の時、出家に反対だった両親が亡くなり、兄の許しを得て果願寺で出家し、「智顗(ちぎ)」と名付けられました。そして一心不乱に修行し、23才の時、当時高名な光州大蘇山の慧思(えし)禅師を訪ね入門を許されました。禅師は「お前とわたしは昔インドの霊鷲山(りょうじゅせん)でお釈迦さまの『法華経(ほけきょう)』を一緒に聞いたことがある」と不思議な因縁を語り、再会を喜んだのです。(霊山同聴(りょうぜんどうちょう))。
 大師は『法華経』の重要な修行である四安楽行を教えられ、修行すること14日、薬王品の焼身供養の文に至って忽然(こつねん)と悟りを得ました。(大蘇開悟)。
 これを慧思禅師に報告すると、「これはお前とわたししか味わえない高い境地である」と絶賛したのです。
 この慧思禅師は、日本の聖徳太子に生まれ替わり『法華経』を弘(ひろ)めたといわれています。
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金陵講説(きんりょうこうせつ)
 30才。やがて慧思禅師は、大師に陳の首都建康(けんこう)(金陵(きんりょう)・南京)で布教せよと命じました。
 大師は27人の弟子を連れて建康の瓦官寺(がかんじ)に移り住み、説法しました。大師の説法は、当時高名な大忍法師が賞賛したばかりでなく、皇帝宣帝(せんてい)までが群臣たちに、大師の『法華経』説法を聞くよう命令するほどすばらしかったのです。やがて名声を聞いて集まる弟子が100人200人と年々増えましたが、逆に悟りを得る弟子の数が少なくなっていることに気付いた大師は、そこで8年間の建康での布教に区切りをつけ、ついに聖地天台山でさらに修行を深める決心をしたのです。
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華頂降魔(かちょうごうま)
 38才。大師の決心を聞いた宣帝は、勅命(ちょくめい)をもって引き留(と)めましたがその決意は揺(ゆ)るぎませんでした。天台山に入ると、最も美しい場所「仏隴峰(ぶつろうほう)」に至ると、なんとそこは子供のころ夢に見た場所だったのです。さっそく大師はそこに道場を建て、「修禅(しゅぜん)道場」と名付けて修行をしました。そして翌年、天台山の最高峰である華頂峰(かちょうほう)に登り一人坐禅をしていると、雷鳴が響き山地が振動し、悪魔のような恐ろしい情景に大師はびくともせず、ついに暁(あ)けの明星を見て真の悟りを得たのでした。これこそ天台仏教の奥義である欠けたることのない完全な教え、法華円教の悟りでした。これにより大師は「中国のお釈迦さま」と呼ばれるようになりました(華頂降魔)。
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放生会(ほうじょうえ)
 44才。天台山から流れ出す川や河口では、漁業が行われていました。ところが水死者も多く、魚も多く殺されていました。大師はこれを憐(あわ)れんで衣や持ち物を売り、そのお金でやな(魚を捕る仕掛け)を買い取り、そこを放生(ほうじょう)の場所にしました。そして『金光明経(こんこうみょうきょう)』流水品(るすいぼん)の説教をすると、人々はだんだん殺生(せっしょう)が嫌いとなり、やなが廃止されるようになりました。これを聞いた宣帝は大変感動し、その流域を勅命で放生池(ほうじょうち)と定めました。この大師の放生会は、仏教史上初めてのことです。
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光宅寺講説(こうたくじこうせつ)
 48才。陳の永陽王(えいようおう)は、大師から受戒し、命も助けられたことがありました。永陽王は、大師を建康の都に迎えようとたびたび要請しましたが、なかなか承知しませんでした。
 ついに三度目の願いにより、大師はようやく建康に行き、宮殿で『大智度論(だいちどろん)』や経典をたくさん説いたのです。皇帝は高僧を呼んで難問を質問させましたが、ことごとく明解に答えたので、人々は仏様のように敬(うやま)ったのです。
 やがて50才の時、『法華経』の文章を解説した『法華文句(ほっけもんぐ)』を光宅寺で講説しました。
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晋王受戒(しんのうじゅかい)
 54才。隋(ずい)国が天下統一した後、晋王(しんのう)(後の煬帝(ようだい))は、揚州の禅衆寺を修復して大師を招請しました。
 この時、大師は晋王に不思議な因縁を感じて揚州に向かいました。晋王は僧侶千人を招いて供養し(千僧斎(せんそうさい))、願文を記すなどして熱心に仏教に帰依し、受戒を願ったので、大師は、大乗菩薩戒を授けました。晋王は大師に「智者」の号を送り、弟子として一生誠実に仕えたのです。
 これから智顗(ちぎ)禅師は智者大師(ちしゃだいし)として敬(うやま)われることになったのです。
 後の煬帝は、日本聖徳太子の遣隋使、小野妹子(おののいもこ)の拝謁(はいえつ)を許し、慧思禅師使用の『法華経』を日本に伝えさせたのです。
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玉泉寺講説(ぎょくせんじこうせつ)
 55才。大師は晋王が引き留(と)めるのをやっと断(ことわ)り、廬山(ろざん)や南岳(なんがく)を訪(たず)ね、故郷である荊州(けいしゅう)に帰りました。そして56才。故郷の恩に報(むく)いるため玉泉寺を建立し、『法華経』の経題を講義した『法華玄義(ほっけげんぎ)』を説きました。次の年は、仏教の修行内容をまとめた『摩訶止観(まかしかん)』を説きました。これらは先に説いた『法華文句(もんぐ)』と共に天台三大部として伝えられ、それからの仏教にとても有益な大きな影響を与えました。
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天台帰山(てんだいきざん)
 58才。大師は晋王の願いにより再び揚州に向かいました。そこで王の求めにより『維摩経(ゆいまきょう)』を解説した本を献上しました。この『維摩経』は在家の維摩居士が仏教の深い真理を体得していることを説く経典です。晋王は、これを喜び、いつまでも揚州に留まるよう望みましたが、大師は天台山こそ帰るべき所と告げ、その秋、再び天台山に帰ったのです。
 天台山に帰ってみると、昔の道場は荒れ果てていましたが、大師は、なつかしい渓谷や泉石に触れて深く喜びました。
 やがて再び天台山に僧侶が続々と集まり、修行を始めたのです。
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ご入滅(ごにゅうめつ)
 60才。晋王に何度も要請され、大師はついに下山を決意しました。天台山西門まで下(お)りたところ病気になり、石城寺に入り、臨終が近いことを悟りました。そこで大師は弟子達に、「観音様が師匠や友人を伴って私を迎えに来ました。これからは戒律を師とし、四種三昧(ざんまい)に導かれて修行しなさい」と遺言(ゆいごん)し、11月24日未刻(昼2時)に入滅されました。大師は即身仏となられ、肉身塔にまつられ、晋王は天台山に国清寺を建立し、大師の偉業を賛えました。
 ・・・以来1400年、天台大師の教えは宗祖伝教大師によって日本に伝えられ、今も仏教の根本原理となっているのです。
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天台の祖師達

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■ 修禅大師
義真(781~833) 第1世天台座主
 平安初期、相模の人。22歳で得度、早くより最澄について天台を学び、延暦23年(804)、師に従って訳語僧(通訳)として入唐。帰朝後、最澄を補佐し、師の没後その遺志を継いで比叡山に大乗戒壇を設立。初の大戒の伝戒師となる。天長元年(824)初代天台座主となった。弟子に円珍がいる。

■ 別当大師
光定(779~858) 実務に徹して比叡山を護持
 伊予の人。大同3年(808)、30歳で最澄の弟子となり、大乗戒壇設立のために尽力。円澄入滅後、天台座主不在の18年間を含めた36年間にわたり、延暦寺を護持・運営。延暦寺別当に任命されたところから、別当大師と呼ばれる。墓所は、伝教大師の廟所(比叡山浄土院)の隣に寄り添うようにある。

■ 慈覚大師
円仁(794~864) 第3世天台座主
 下野の人。15歳で最澄に師事し、承和5年(838)中国に渡り、五台山・長安等で勉学、会昌2年武宗の仏教弾圧に遭い、艱難辛苦しながら多くの典籍・教法を持ち帰った。帰朝後は天台密教の大成につとめ、関東東北を巡錫して多くの霊場を開いた。

■ 智証大師
円珍(814~891)
第5世天台座主 天台宗寺門派の開祖
 讃岐の人。母は空海の姪にあたるといわれ、15歳で比叡山に入り義真に師事した。仁寿3年(853)入唐。天安2年(858)四四一本一千巻の経論典籍とともに帰朝、比叡山山王院に住した。貞観8年(866)園城寺の別当となり、大いに天台の教風を宣揚した。貞観10年(868)安恵に次いで天台座主となる。同年園城寺を賜わると、ここを天台の別院とした。後に円珍の門流は園城寺において、円仁の門流(山門派)に対し寺門派を形成する。

■ 安然和尚
(841~?) 五大院先徳 阿覚大師
 近江の人。円仁・遍照に学び、比叡山に五大院を構え盛んに天台密教を講述した。『悉曇蔵』等の著がある、天台密教の大成者である。生涯、ただ研究と著作に没頭したので、世にもっぱら五大院の先徳といわれる。

■ 相應和尚
(831~918、一説に908)
回峰行の始祖 建立大師 南山大師
 近江の人。15歳で円仁の門に入り、宇多天皇の歯痛を鎮めるなどたびたび法験をあらわした。貞観7年(865、一説に貞観6年)回峰行の根本道場として無動寺を建立したので、後に建立大師といわれる。
 朝廷に奏上して最澄に「伝教」、円仁に「慈覚」の大師号を賜った。

■ 慈恵大師
良源(912~985) 第18世天台座主 元三大師
 近江の人。南都の学匠を論破し(応和の宗論)、名声が響き渡った。多くの門下があり、源信・覚運などの偉才を輩出した。学問を奨励し、荒廃した比叡山を復興・拡充したので、叡山中興の祖と仰がれる。
 角大師・豆大師として庶民に広く信仰される。おみくじの元祖でもある。

■ 恵心僧都
源信(942~1017) 日本浄土教の祖
 大和の人。良源に師事し、学才の誉れ高かったが、母の教誡によって栄名を忌み、横川の恵心院に住んで浄業を修し、『往生要集』を著わして日本の浄土教の基礎を築いた。仏像・仏画の制作が多数にのぼる。浄土系各宗から特に尊祟されている。

■ 空也上人
(903~972) 空也念仏の祖
 京都の人。醍醐天皇の第5皇子とも伝えられる。在俗の修行者として遊行し、天歴2年(948)延暦寺の延昌に戒を受けた。応和3年(963)京都に西光寺(後の六波羅蜜寺)を建てた。常に市井に立って南無阿弥陀仏を称え、庶民に念仏を広めて市聖(いちのひじり)と呼ばれた。その念仏を空也念仏とも称し、踊り念仏の祖とされる。

■ 慈眼大師
天海(1536~1643) 上野寛永寺と創建
 14歳で宇都宮粉河寺(こかわでら)の皇瞬僧正に学ぶ。後に比叡山で天台三大部を学び、園城寺でも就学、興福寺で法相・三論等を研究。徳川家康に謁見してより、次第にその信任を得る。のち秀忠・家光にも信頼が厚かった。
 元和2年(1616)家康が亡くなると、その亡骸を久能山より日光山に移し、奥院廟塔(後の東照宮)を造営する。そして家康に東照大権現の諡号を贈る勅許を得た。
 また、秀忠に助言し、上野の東叡山寛永寺を創建し、その第1世となった。
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各宗の開祖達 [比叡山で学んだ開祖達]

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■ 法然上人
(1133~1212) 浄土宗の開祖
 岡山県の人。13歳で比叡山に上り、黒谷の青龍寺にこもり経典を読破。「念仏によって正しい生活と往生が得られる」と確信し、1175年浄土宗を開く。

■ 栄西禅師
(1141~1215) 臨済宗の開祖
 岡山県の人。14歳で比叡山に入り、その後2度にわたって中国に留学。臨済宗黄龍派の禅と戒を学ぶ。帰国後博多の聖福寺を拠点に活動を始め、鎌倉の北条政子など、幕府の援助で京都と鎌倉に活動の拠点を設け、禅の教えが認知されるようになった。

■ 親鸞聖人
(1173~1262) 見真大師 浄土真宗の開祖
 鎌倉初期、京都の人。9歳で比叡山の慈円の門下に入り、29歳で法然の弟子となり、他力易行門を会得した。35歳で配流の身となってからは越後、関東と教化の旅を続け、在家往生の実を示すため自ら肉食妻帯をした。『教行信証』を著わし、浄土真宗を開いた。90歳、京都に寂す。

■ 道元禅師
(1200~1253) 承陽大師 日本曹洞宗の開祖
 京都の人。13歳で比叡山に登り、翌年、公円のもとで剃髪し天台の秘奥を学ぶ。後、建仁寺で栄西の高足の明全に師事し、禅宗に帰した。貞応2年(1223)、中国に渡って曹洞宗を学び、帰朝後は京都に興聖寺を開いて、只管打坐を唱導した。寛元2年(1244)、越前に大仏寺(永平寺)を創建し根本道場とした。

■ 日蓮上人
(1222~1282) 立正大師 日蓮宗の開祖
 安房の人。12歳で安房清澄山に登り、道善に師事。21歳で比叡山に登り修学すると共に、諸所を遊歴し、31歳帰郷。初めて南無妙法蓮華経の題目を唱え、以後『法華経』の法門を弘通した。文永11年(1274)身延山に住し、弘安5年(1282)、池上に寂した。

■ 一遍聖人
(1239~1289) 智真 時宗の宗祖
 伊予の人。母の死後10歳で出家、太宰府の浄土宗西山流聖達や肥前の清水寺の華台に学ぶ。在俗生活の後再出家し、信濃の善光寺にて他力念仏の安心を得る。以後一所不住の遊行を続け、空也にならって踊り念仏で布教した。

■ 真盛上人
(1443~1495) 慈摂大師 天台宗真盛派開祖
 伊勢の人。19歳のとき、比叡山西塔の慶秀に師事。恵心僧都に傾倒して浄業を修し、在山20有余年、後に坂本西教寺を再興して根本道場とし、戒律と称名念仏を唱導した。円戒国師の称号がある。


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