天台宗について

Q&A~よくある質問~

皆さまからお寄せいただいた質問について回答します。
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お経を読むのはどういう意味ですか?

僧侶がお経を読むとき、天台宗の場合、多くは法華懺法・例時作法と呼ばれる法要儀式によっています。これらの作法に則ってお経を読んで理解に努めることは、本来、僧侶の中心的な修行方法です。檀信徒の方々が仏壇や霊前でお経を読むことも、略式ではありますが同じ意味があると考えられます。ですから、亡くなった方にお経を読んで差し上げることは、ともに仏様の教えに従って修行をしていることになるでしょう。故人に、速やかに仏様の境地に達していただける(=成仏)ように、ということになるのです。

また、御霊前に参列している全ての方々にお経を聞いていただくことにも同様の意義があります。すぐにその意味を理解できずとも、お経の良い効果・影響は必ずあるとされるのです。お経を読む声は耳から聞こえるだけでなく、からだの毛孔からさえも染み入ってくるとされ、また気が散っていても居眠りをしていても、仏様の道への良い因縁となるのです。

こうしたお経の優れた性質・特質を、お経の功徳と呼びます。そしてこの功徳が、故人に、まわりの人々に、世界中の全ての人々にいきわたりますようにと念ずることを、「回向する」といいます。そこで、お経を読むこと自体を「回向する」というようにもなりました。自分だけでなく全ての人々のためにという気持ちこそが大切なのであり、この気持ちがあって初めて、お経を読む功徳が生ずると考えるべきことと思われます。

合掌にはどういう意味があるのですか、教えてください。

合掌とは、両手を胸の前で合わせ相手に対し敬意を払う礼法です。インドでは右手は聖なる手、左手は不浄なる手と考えられていて、両手を合わせるのには、人間は聖なる面と不浄なる面を合わせた存在であるということを意味しています。

また合掌には、

  1. 神仏に手を合わせれば信心となる。
  2. 父母に手をあわせれば孝行となる。
  3. お互いに手をあわせれば平和となる。
  4. ご先祖に手を合わせれば供養となる。
  5. 自分自身に手を合わせれば心静まり・人も許せ・力湧き出る。

など、様々な功徳があります。もしもすべての人々が生きとし生けるもの全てに感謝と畏敬の念をこめて心から合掌して生活すれば、この世に存在する多くの問題が解決するかもしれません。

檀家とはどういう意味でしょうか?

檀家とは、仏教を信仰し、帰依する寺院(菩提寺)を護持する家という意味です。

公家や武家が特定の菩提寺をもったことに始まり、近世初めに民衆の世帯が家として成立してくるようになると、菩提寺と檀家とが固定するようになってきました。この状況をふまえて、江戸時代にキリシタン禁制を強化するために全国で寺請(てらうけ)制度が施行されます。また、寺請(てらうけ)制度は一般民衆を特定の寺院に強制的に所属させて戸籍登録を行わせるものでしたが、やがてその基礎単位となる世帯のことを「檀家」と呼ぶようになりました。

檀家という言葉は、古代インドの言語であるサンスクリット語の「ダーナ」に由来し、中国では漢字で「檀那」と音訳されました。私たちが日常生活でよく使う「旦那」という言葉の起源でもあります。もともとは、「布施」「与える」という意味ですが、日本では寺院や僧侶に寄進する後援者を意味するようになり、これが転じて檀家と呼ばれるようになったのです。また布施を受ける寺のことは「檀那寺」と呼ばれました。

檀家制度は日本で誕生しましたが、仏教教団を経済援助する人々は今から遡ること二千五百年前のお釈迦様の時代からすでに存在しました。インドのコーサラ国の都、舎衛城(しゃえいじょう)という所にスダッタという資産家がいました。ある時、お釈迦様の説法を聞いて深い感銘を受け、「ぜひともお釈迦様とそのお弟子さん達が集団で修行ができる施設を建ててさしあげよう」と、土地を手に入れて、「祇園精舎」を建てました。これがお寺の第1号といわれます。スダッタは檀家の第1号といってもよいでしょう。

以上のお話により、「布施」には(お釈迦様が)法を施す「法施」と、(スダッタが)財を施す「財施」とがあることも示されます。この、お釈迦様とスダッタ長者のような関係であることが、本来の、またこれからの寺と檀家のあり方だろうと思われます。

お寺さんへの御礼の包み方、表書きの書き方を教えてください。

一般的には、市販の祝儀袋を使います。お礼の意味合いによって赤い水引、黒い水引を使い分けます。水引の上段にその意味を下段にはご自身のお名前を書きます。

お盆 赤水引 御布施、盆供、盆礼、御礼、読経御礼
寺参拝・祈祷 赤水引 御宝前、御仏前、御本尊前、御香華料
法事・年回に来ていただいた僧侶への御礼 赤水引 御布施、御礼、御布施
葬儀(僧侶への御礼) 黒水引 御布施、御礼、読経御礼
葬儀(寺への御礼) 黒水引 御布施、奉納、御宝前、御香華料
葬儀(戒名の御礼) 黒水引 御布施、法名御礼、御戒名御礼

上記はあくまでも一般例です。地域によって習慣は変わりますので、迷ったときは恥ずかしがらずに菩提寺の住職にお訪ねください。

お墓参りに特別な決まりのようなことはあるのですか? また、どんな事に気をつけたらよいのでしょうか?

お墓参りに特別な作法はありません。大切なのはご先祖様への報恩感謝の気持ちを込めてお参りをすることです。最近では、お墓参りの代行を頼まれる方々がいますが、お墓参りは故人と私たちの結びつきを再確認する大切な行いです。実際のお参りについて一例を挙げますと、

  1. お参りするために→輪袈裟・数珠・経本・線香・ろうそく・マッチ
  2. 掃除用に→たわし・歯ブラシ・ほうき・ぞうきん・バケツ・ゴミ袋など。(バケツやひしゃくなどは、霊園で貸してもらえますが、事前に調べておくとよいでしょう。)
  3. お供え用に→お花・菓子・果物・飲み物・それらを置く半紙など。

以上を用意して、お墓を掃除し、線香・ろうそくをお供えして、できればお経をお唱えしてお参りします。

お参りが終われば、お供えの食べ物や飲み物は持ち帰るよう心掛けましょう。借りた用具はきちんと戻し、ひとこと挨拶をして帰るくらいの心配りは忘れないようにしたいものです。

忙しい現代では、このような丁寧なお参りは、思っていてもなかなか出来ませんが、せめてお盆・お彼岸くらいは家族そろってお墓参りをし、菩提寺のご本尊さまへ併せてお参りし、故人を偲びたいものです。

ある方から、「お墓の方位と墓相が悪い」と言われ気になっています。方位・墓相が悪い場合は建て直した方が良いのでしょうか?

お墓は当初は仏塔として建てられ、八方世界を普く照らし、東西南北、上下、いずれの方位も関係ないと言われます。一般的には南向き、東向きが好まれますが、方位を特に気にする必要はないと思います。

また、墓相ですが、時代と地域によって墓地・墓標の形態は様々です。現代では寺院の境内、霊園、納骨堂など様々な様式が存在します。

改めて「良いお墓」とは、有縁の方々が気持ちよくお参りできることではないでしょうか。お墓の方位や墓相にとらわれるよりも、お盆・お彼岸・御命日にはお参りし、お墓を綺麗に掃除して、ご先祖様を想い、自分たちの生活の歴史を子孫に伝える大切な場所であることを認識することが大切です。どんなに立派なお墓でも荒れていたのではご先祖様の供養にはなりません。

また方位墓相が悪いからといってお墓を建て直せばいいというものではありません。ご先祖様に縁のある方々がお参りしてくださることこそ大切であり、良いお墓と言えます。必ずご先祖様は見守ってくださいます。

仏壇の祀り方について教えて下さい。

仏壇とは、いわばお寺の本堂を小さくして家の中に置いたものです。つまり、仏様(本尊様)をお祀りすることが主体であって、仏様に手を合わせて今日の無事を感謝し、また明日の無事を祈る場所です。そしてまた、本尊様とともにご先祖様に対しても感謝の気持ちで祈るため、位牌を祀るのだと考えられるでしょう。

そこで先ず、最上段の中央に本尊様をお祀りします。天台宗では、「本尊」をとても柔軟に考えます。姿・性質は異なれど、みな等しく仏様の世界に導いて下さるのですから、仏・菩薩・明王・諸天、すべてを本尊様と呼べるのです。お祀りする本尊様については、菩提寺に相談されるのが良いでしょう。天台宗の場合は、本尊様に向かって右に天台大師、左に伝教大師のお姿をお祀りするのが通例です。

次に、中段にご先祖様の位牌を安置します。中段中央には本尊様へのご飯やお茶の器、過去帳などを置くでしょうから、位牌は左右に置かれることになるでしょう。下段には三具足・五具足などと呼ばれる香炉・華瓶・燭台を揃え、その前に経机を置いて、経本・香炉・線香・鈴・念珠などを用意するのが丁寧なやり方でしょう。

このように一応の約束はありますが、住宅事情などにより臨機に考えるべきです。たとえば小振りな仏壇で本尊様と位牌が同じ段になるようなこともあるでしょう。また置き場所や向きも、「神棚と向かい合わせにしない」「極端に高い・低い位置を避ける」「落ち着いた場所に安置する」などに留意すべきではありますが、無理をすることもないかと存じます。

いずれにせよ、仏壇は「家の中のお寺」ともいえるのですから、菩提寺に依頼して開眼法要をして、お花やお茶を供えます。そしてわずかの時間で結構ですので、毎日手を合わせる気持ちが大事なことと考えて下さい。

ある方から仏壇の向きが悪いと言われましたが、家の構造上、場所を移動することができません。また、仏壇の中に他姓のお位牌を祀ると争うことになると言われましたが、父は養子なので祖父と姓が異なります。どのようにすべきでしょうか?

仏壇とは、仏像やお位牌を安置する場所をいいます。その起源については諸説があり、定かではありませんが、通説では『日本書紀』に、白鳳14年(685年)3月27日、天武天皇が「諸国の家ごとに仏舎を作り、即ち仏像と経とを置きて礼拝供養せよ」との勅命を出したのがはじまりとされています。また、貴族や上流階級の人々が屋敷内に建てた持仏堂(じぶつどう)が小型化されて屋内に取り込まれたとする説や、お盆の魂棚(たまだな)を起源とする説もあります。江戸時代になると一般庶民の間にも広く普及したようです。

仏壇の位置については様々なしきたりがいわれていますが、余りこだわりすぎる必要はありません。大切なのは仏様やご先祖様に日々の感謝をすることです。ですから、毎日お参りをして、お茶やご飯をお供えしやすく、家族がよく集まるような場所を選ぶのがよいでしょう。また、直射日光が当たるところ、湿気が多く風通しのよくないところ、目が届かず火の始末がしにくいところは避けたほうがいいでしょう。

次に同じ仏壇に他姓のお位牌を祀ることですが、そもそも仏壇は本尊を祀る場所であり、ご先祖様は仏弟子として法名や戒名がつけられています。仏様の世界では誰もが平等ですから、生前の姓が異なっても何の支障もありません。また最近では、少子化・都市化・核家族化によって新しいスタイルとして合祀墓・納骨堂が注目を浴びています。合祀墓は自分の意志で他人と一緒に納骨されるお墓です。これは私たち一人一人が仏弟子であり平等であるとの思想から生まれたものだとも言えます。よって、お参りする側も姓の違いにこだわることなくお参りすべきでしょう。

供養や法事には、どういう意味があるのですか?

供養とは、もともと敬意をもっておもてなしをするという意味で、仏・法・僧の三宝(さんぼう)に食事や衣服などの物資をささげて僧団を援助することをいいましたが、時代が下るともに、仏前に香・花・燈明やお供物などをお供えすることを供養と呼ぶようになりました。特に日本では、亡者の冥福をお祈りするためにお供物や塔婆を奉げる追善供養が中心になったので、仏様だけでなく、ご先祖様を供養の対象にするのが一般的になりました。

また供養というと、ただ物品をお供えするだけのように思われがちですが、それだけではありません。供養には2種類があり、お花やお香、お供物を奉げるのを「利供養」といい、これに対して、仏様の教えにしたがって日々修行をすることを「法供養」といいます。法供養と利供養の2つがあってはじめて本当の供養になるのです。

ですから、日常の生活すべてが仏様やご先祖様への供養だと思って、日々深い感謝の気持ちをもって生きていくことが大切です。

法事とは法要ともいいますが、厳密に区別すると、法要とはお寺さんにお経をあげてもらうことをいい、法事とは法要と後の食事を含めたものです。いずれにしても仏様やご先祖様を供養する場のことです。広くは仏事全般を指しますが、日常的には初七日から三十三回忌までの年忌法要を意味します。

仏教では人が亡くなると、四十九日までに生まれ変わると考えられ、その間、7日ごとに追善供養をする風習がありました。さらに仏教がインドから中国に伝わると、初七日から四十九日までの7回の供養に加えて、百箇日・一周忌・三回忌を営むようになりました。これは儒教の服喪の制度に基づくもので、孝を重んずる中国ならではの変革です。さらに日本では鎌倉時代の頃より十三仏の思想と結びついて、三十三回忌をもって「弔い上げ」とする型が整いました。

深い縁で結ばれていた人との永遠の別れをいつまでも惜しむ気持と、一日も早く仏様の世界に導かれて安らかになって欲しいという気持が一つとなって、このような法事の形態がつくられてきたのでしょう。

また遺族の立場からすれば、「法事は孫のお祭り」などと言われるように、孫のお披露目の場でもあり、それぞれの家族が無事に過ごしていることを、ご先祖様をはじめ、集まった親族に報告する会でもあります。現代のように親戚が全国各地にバラバラに暮らすことが珍しくない状況では、法事は親族が一同に会する大事な機会といえるでしょう。

追善供養とはどういうことなのでしょうか?

「追善」とは、先に亡くなった親・兄弟・先祖の御霊のために、生きている者が追って善行を積み、その冥福を祈ることをいいます。具体的には、仏壇やお墓へお参りすることはもとより、亡者の年忌などに法事を営んで供養するので、「追善供養」というわけです。

法事では、仏様やご先祖様に対してお花やお香やお供物をお供えし、菩提寺の僧侶に読経していただきます。また法事に集まった人々に飲食を提供し、故人を偲びつつ近況を語り合います。これら法事において施すのもの全てが供養なのです。

また、供養を次のような視点で考えるとわかりやすいでしょう。

  1. 香華・飲食物をお供えする。
  2. ご先祖様を偲び敬う心を養う。
  3. 仏縁を受けとめて修行・回向する。

つまり、この3つの要素が法事にあります。ご先祖様の菩提を願うと共に、法事は自己の善徳を積む修養の場でもあります。

法事の終わりには『回向文』(えこうもん)というお経が唱えられます。

「願わくばこの功徳をもって遍く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに仏道を成ぜん」

回向とは、自らが修めた善行の功徳をめぐらして、他の衆生に差し向けることをいいます。追善供養たる法事を営むことで、ご先祖様や有緑無縁の諸霊、周囲のすべての人たちに功徳が及び、そしてすべての人と共に仏道を完成したいと願います。

人間は、自分と自分を取り巻く多くの方々と相互に助け合い、譲り合い、関わりあって生かされて生きています。しかし、複雑多忙な現代社会にあっては、普段の生活において自己をみつめて反省したり、将来についてゆっくり考えたり、周囲に感謝する余裕があまりないのではないでしょうか。

ですから、せめてご先祖様の年忌を節目として法事を営み、機会をみつけて寺院行事に参加し、ご先祖様に対して心からの供養をしたいものです。

仏壇の前で手を合わせる時、墓参で香華を手向けて合掌する時、法事に参列する時、不思議と心が落ち着き、安心(あんじん)が得られます。このことは仏教徒が修する仏事の功徳なのではないでしょうか。

ご先祖様は、いつでもあなたとの心の対話を待っていらっしゃいます。

仏事の後にいただくお斎(とき)にはどのような意味があるのですか?

お斎(とき)とは、今では広く仏事の際にいただく食事をさしています。しかし、斎という言葉には「つつしむ」という字義があり、本来は身を慎んで清浄な生活をおくることを意味します。また「斎戒」(さいかい)ともいいます。

もともとインドの仏教では、出家者は正午を過ぎてから食事をしないという戒律があり、食事をつつしむのが斎の由来となるわけですが、それが転じて正午以前に供養される食事を斎というようになり、これがさらに広く解釈されて仏事の際の食事をも意味するようになったのです。

仏事において一番に心掛けることは、一同で故人を偲ぶことでしょう。普段はなかなかお付き合いのできにくい遠方の方々と交わり、故人のことを語り合うとき、食事の席は好適です。便利になった現代と異なり、昔は食事を差し上げること自体が大切なおもてなしでした。そのような心情は、お斎の席でよく耳にする「故人への供養だから」という言葉にも通じるのでしょう。

このように、本来、身を慎んで修行することに由来するお斎ですから、その席での心掛けもおのずと定まります。招く側も招かれる側も、少々の不手際をあげつらったりするようなことでは元も子もありません。

伝教大師は、弟子達に「道心の中に衣食あり、衣食の中に道心なし」という言葉を残されました。物質的な要求を優先するのではなく、仏道を求める心掛けの中にこそ、生活するうえで必要なものも自ずとついてきて、心の平安も得られる、とおっしゃったのです。

ともすれば「衣食足りて礼節を知る」のが我々であるかも知れませんが、少しでも心を改め、優れた先達(せんだつ)の言葉に耳を傾ける席にしたいものです。

お盆とは何ですか? どのようにして迎えたらよいのですか?

お盆は、盆踊り、お盆休暇の帰省ラッシュなど、日本の夏の風物詩ですね。お盆には必ずお墓参りに行きましょう。

お盆の期間は地域によって異なります。たとえば新暦による7月13日から16日までの4日間、全国的には月遅れによる8月13日から16日に実施されることが多いようです。

「お盆」は「盂蘭盆会(うらぼんえ)」という言葉を略したもので、語源は古いインドの言葉を音写したものといわれています。そもそもお盆の行事は『盂蘭盆経』に説かれる目連尊者の故事に由来します。

ある日、目連尊者は神通力で自分の母親の死後の世界を見たのです。すると、母親は餓鬼道に堕ちて飢えと渇きに苦しんでいるではありませんか。目連尊者は母親を救済するべくお釈迦様に相談すると、「安居(あんご)という僧侶達の修行期間が旧暦の7月15日に明ける。その時に僧侶や貧困に苦しむ人々に飲食物を施しなさい。そうすると、飲食や読経の功徳により母親は餓鬼道での苦しみから解放されるであろう」とおっしゃいました。目連尊者はお釈迦様の言うとおりに実践したところ、餓鬼道に堕ちていた母親を救うことができたのです。

日本のお盆は、日本古来の祖霊信仰と融合しつつ、ご先祖様に報恩感謝し、餓鬼道で苦しんでいる人々のために供養をする大切な期間となりました。また、お盆の期間にはご先祖様の御霊が帰ってくるといわれ、菩提寺から僧侶が檀家を訪問して読経します。これを棚経(たなぎょう)とか盆経(ぼんぎょう)といいます。

ご先祖様の御霊をお迎するにあたり、13日の朝に精霊棚を設置します。精霊棚は盆棚ともいい、お位牌を安置し、お供え物をする棚です。ご先祖様の御霊が乗るためにナスやキュウリで作った牛や馬もお供えします。そして13日の夕方に門口で迎え火を焚き、ご先祖様の御霊を迎えます(精霊迎え)。そして16日の夕方に送り火を焚き、お盆の間に一緒に過ごしたご先祖様の御霊を送り出します(精霊送り)。16日夜の京都の大文字五山送り火は有名です。地域によっては川や海へ御霊を送る「精霊流し」「灯篭流し」の風習があります。

諸事情により精霊棚を設置できないお家でも、仏壇を掃除し、お花やお供え物をして、気持ちよくお盆を迎えられるようにしたいものです。

なお、故人が四十九日(満中陰)の忌明けの後、初めて迎えるお盆を「初盆・はつぼん」または「新盆・にいぼん・あらぼん」といいます。提灯の明かりで御霊が道に迷わないようにという意味で、新盆提灯や新盆灯篭を飾る地域もあります。

ところで、実は「お盆」と「お中元」の由来には深い関係があります。

古来、中国の道教では、7月15日を中元といい、これが日本に伝わると「盂蘭盆会」と重なったことから、祖先の御霊(みたま)を供養するとともに、家族が1年の前半を無事に過ごせたことに感謝して仏様に供える供物を親類や隣り近所に贈る習慣ができました。そして江戸時代以降、目上の人、お世話になった人に贈り物をする「お中元」に変化しました。

私たちはお盆の行事に際し、まずもってご先祖様に感謝し、そして常日頃の生活を反省して自分を見つめ直す機会といたしましょう。

葬儀の意義について教えて下さい。

「生者必滅」(しょうじゃひつめつ)、「会者定離」(えしゃじょうり)ということは、普段、頭ではなんとなくわかっていても、実際に自分の肉親や親しい友人の死に直面してみないと、なかなか実感できないものです。世の無常について身をもって体験するこの悲しい別れは、同時に、生命の尊さを自覚し、今自分が生きていることの意味を問い直すよい機会でもありましょう。

でも、悲しみを歎いてばかりもいられません。厳粛で心のこもった葬儀は、のこされた者のつとめであり、故人に対して最後のお別れとなる重要な儀式です。

天台宗の葬儀式では、故人を仏界へ導くために授戒され、戒名が授けられます。見送る親族や縁者と、供養される故人が一体となって、仏性(ぶっしょう)を開発し、共に仏道を成じていこうとすることに、その意義があります。

また、葬儀について、主に遺族の側から考えてみますと、次のような働きがあるのではないでしょうか。

  1. 悲しみの共有と慰めの機能
    親戚・知人が集まり、悲しみを共有します。そして故人のためにともに涙することは、遺族にとっても大きな慰めとなります。
  2. やすらぎの機能
    通夜・葬儀の間は、世間の雑事から離れ、心を落ち着かせて故人の死と向き合う時間です。儀礼には安心を形づくる働きがあります。
  3. 祈りの機能
    何をどうしてよいのか気が動転している場合でも、儀礼に参加することによって悲しみから祈りへと気持を転換させることができます。仏教的には故人の成仏を願う祈りの場になります。
  4. 意味づけの機能
    故人の人生について考える時間となります。家族といえども故人の全てを知っているわけではありません。会葬者から伺う思い出話は、遺族にとって貴重なものです。また、故人のみならず自分自身の人生についても、その意味に気づかされるでしょう。

葬儀は、人が亡くなったことを受け入れるための大切な儀式です。亡くなった人を弔う行為は太古の昔からから変わらぬ人類共通の営みで、思想や科学、社会状況が変化したとしても、その中心にあるのは故人を思う気持ちであるはずです。

私たちは葬儀の意義を正しく理解し、普段から家族同士でよく話し合い、考えを深めておくことが大切ではないでしょうか。

葬儀や法事に参列した時の心がけを教えて下さい。

葬儀のときや、四十九日忌のように葬儀に近いうちの法事では、遺族・親族をはじめ参列される方々は悲しみの内にあることでしょう。またそのような中でも、葬儀・法事を滞りなく進めるべく遺族の方々は緊張の中にあり、心身共に負担がかかっているはずです。こうした当然の事情をふまえ、参列者は常識的な気遣いを心がければよいはずです。

例えば、全体の進行を遅らせるようなことを慎むべきです。自分に対する応対にあまり時間をかけさせないようにする、焼香をするときなどに必要以上に丁寧に時間をかけたり、大げさな感情表現をしない、無用の譲り合いをしないなど、いくらでも細かい気遣いができるはずです。また、故人に近い人々の心情をその人の立場で考えれば、話題にも注意すべきでしょう。段取りに多少の落ち度があったとしても、それをあげつらっているようでは何をしに来たのかわかりません。

法事とは、もともとは広く仏教の行事を指していましたが、現在では亡くなった方のために供養することをいいます。しかしながら、「故人のため」という限定的な捉え方では、葬儀・法事の意義は尽くせません。法事に参列する人々が故人を偲び、改めてその恩に報いてしっかりと人生を歩む気持ちを起こすことは、やがて広く社会・人々のためになるはずです。こうしたことに思いを巡らすなら、おのずと参列の心がけも深く考えることになるでしょう。そして、実はこの「他人を気遣ってよく考えて言動する」ことこそ、「仏教に基づいた儀式」としての法事の重要な意義のひとつと考えるべきでしょう。

葬儀の後、初七日、五七日(三十五日)、七七日(四十九日)などの法要を行う理由を教えてください。また「三月がかりになるから、四十九日を繰り上げなさい」と言われましたが、それはどういうことでしょうか?

仏教では、生きているものが亡くなってから次に生まれ変わるまでに最長で49日あるとし、その期間を「中陰」(中有)といいます。死後49日目の忌明けは満中陰とも呼ばれています。この間、亡者は7日ごとに生前に行った善悪の裁きを受けて、転生する来世が決まるといいます。よって、遺族は裁きの日にあわせて追善供養の法要を営み、亡者に有利な判決が下されて極楽浄土に行けるようにお祈りをするのです。

この考えがインドから中国に伝わると、より具体的なイメージが広がり、7日ごとの裁きには「十王」が裁判官の役目をつかさどるとされました。この中で私達に馴染みのある閻魔大王の審判は5番目の五七日(三十五日)になります。日本ではこの日を重んじて、五七日を忌明けにする地域もあります。

中陰の49日間には計7回の裁きが行われるので、十王のうち七王しか登場しません。残りの三王についてはどうなっているかというと、中国では、49日の7回目の最終判決の後に再審のチャンスが設けられ、百箇日・一周忌・三回忌の3つが加えられているのです。したがって、合計10回の裁きに、十王がそれぞれ審判にあたることになります。

これが日本に渡ると、さらに再審が先延ばしされて、三十三回忌まで設けられるに到り、それに応じて裁判官も増員されて十三王に増えました。そして十三王の正体は、実は仏様や菩薩であるとも考えられるようになりました。

例えば五七日の裁判官である閻魔大王は、悪道で苦しむ人々を救う地蔵菩薩の化身であり、忌明けとされる七七日の裁判官である太山王(たいざんおう)は、病苦を除き安楽を与える薬師如来の化身だといわれます。

亡者の悪い行いを裁く裁判官は一見恐ろしいイメージがありますが、決して亡者を懲らしめているのではなく、何とか救ってあげようという気持ちで溢れているのです。本来49日が判決の期限であるのに、最終審判が先延ばしされているのも、このことを物語っているように思われます。

追善供養を営む側の私たちも、仏様や菩薩の慈悲心に感謝をして亡者の冥福をお祈りしなければなりません。

ところで、ご質問の「三月がかり」とは、満中陰(四十九日)まで三ヶ月にわたるのをよくないとする考えですが、この言葉はもともと、お産のために実家に戻ったお嫁さんが婚家に帰ろうとしないのを、子どもに苦労が「身につく=三月(みつき)」といった語呂合わせからきたもので、早く婚家に帰るようしむけた言葉です。本来、葬儀や法事とは関係のない風習ですから心配する必要はありません。

葬儀の際につけていただく戒名とは、どういうものでしょうか? また、生前に戒名をもらう人もいますが、それは昔からあったのですか?

戒名というと、人が亡くなってから授かるものと思われている方が多いと思いますが、本来はそうではありません。仏教に帰依し、仏様の弟子として、その教えにしたがって戒を守る誓いをたてた者に与えられる名前が戒名です。

戒とは、仏教徒が守るべき「いましめ」のことで、立場に応じて様々な種類の戒があり、出家者と在家者の間でも異なります。例えば在家者であれば、三帰五戒や八斎戒があります。ここでは在家・出家に共通の大乗菩薩戒の基本となる「十善戒」(じゅうぜんかい)を紹介します。

  1. 不殺生(ふせっしょう)いきものを殺さない
  2. 不偸盗(ふちゅうとう)他人のものを盗まない
  3. 不邪婬(ふじゃいん)淫らな男女関係をむすばない
  4. 不妄語(ふもうご)うそをつかない
  5. 不両舌(ふりょうぜつ)二枚舌で仲違いさせない
  6. 不悪口(ふあっく)悪口をいわない
  7. 不綺語(ふきご)うわべだけの言葉をいわない
  8. 不貪欲(ふとんよく)むさぼり求めない
  9. 不瞋恚(ふしんに)怒らない
  10. 不邪見(ふじゃけん)間違った見方でものごとを判断しない

このような戒は、仏門に入るときに受戒会という儀式によって授かりますが、その際に俗名とは別に新たに与えられるのが戒名です。キリスト教徒が洗礼を受けたときにクリスチャンネームをもらうのと似ています。

したがって、戒名は本来ならば生きているうちにいただくものであり、日本でも古くは天皇や公家をはじめ上流公家や上流武家の間で、生前に受戒して戒名を持つことが流行しました。しかし、その目的は必ずしも純粋な信仰心によるだけではなく、息災や長寿などの現世利益を期待する側面もあったようです。

やがて、このような上流階級の戒名授与も形骸化すると、臨終間際や亡くなった後になってあわてて僧侶を招いて受戒して戒名をもらうという、いささか本末転倒な事例も目立つようになります。ここに葬儀と戒名授与が結びつく原点があるといえます。

さらに時代が下って江戸時代になると、幕府の政策として、キリシタンでないことを証明するために庶民一人一人を寺院に登録させる檀家制度が進められ、寺院は戸籍係のような役目を担うようになりました。その際に、死者がキリシタンでないことの証しとして戒名をつけることが義務付けられました。その結果、死後戒名は上流階級に限らず、庶民にまで普及するに到ったのです。

ここで死後に授けられる戒名を決して否定するわけではありません。死後に授けられる戒名は、人生の最期に仏縁を結ぶ大切なご縁といえます。しかし、できれば生きているうちに受戒をして、仏弟子としてより良い人生をおくっていただきたいと思います。

最近では、「長生きができます」「高額な戒名料を支払わなくてもいいです」「どの宗派の戒名でもお付けします」と、生前戒名を勧誘している団体などがありますが、仏弟子となって生きるという生前戒名の意味をよくご理解していただきたいと思います。

天台宗では、総授戒運動を推進しています。皆様がご参加できる円頓受戒(えんどんじゅかい)や結縁潅頂(けちえんかんじょう)という授戒会(じゅかいえ)や仏縁を結ぶ儀式が開催されています。まずは菩提寺にご相談ください。

キリスト教では、死ぬ前に神父さんを呼んで「最期の告白」をしないといけないそうです。仏教には、そのような慣わしは無いのですか。

映画などでも、教会の懺悔室で信者が罪を告白する場面が出てきます。カトリックの信者は心に悩みを抱くと教会へ出かけ、神父に告白し懺悔します。神父はその告白を聞き、神に代わってその罪を許します。

臨終の時にも神父に罪を告白し、神の許しを願えば、罪が拭い取られるとされています。

仏教においても、自分の過去の罪悪を仏、菩薩、師の御前にて告白し悔い改める「懺悔(さんげ)」は極めて大切なことであり、仏道修行の根幹の部分でもあります。天台宗でも特に大切にしております。ただし、臨終に際して最期の告白をするという慣わしはあるわけではありません。

臨終が近づいてくると、不安、恐れ、後悔など様々な気持ちが渦巻いてくると言われます。もし最期が近づいて来た時に話を聞いて欲しいと思われることがあれば、僧侶や神父、家族や友人など、信頼できる方に話を聞いてもらわれてはいかがでしょうか? 安らかな境地が得られると思います。

日本人にとって宗教とは何でしょうか?

世界中には、様々な宗教が存在し、歴史の流れの中に生き続け、それぞれの国や民族の生活や文化と切り離すことのできないものです。

宗教という言葉は英語の「religion」の訳語です。明治時代の初めに、外交文書における「religion」という言葉を宗教と訳してから、広く使われるようになりました。「宗」とは、「要」であり、尊ばれるもの、主となる考えという意味です。

文化庁が平成18年12月31日現在として発表した「宗教統計調査」によると、国民の約51.1%が神道の、42.7%が仏教の、1.5%がキリスト教の、4.7%がその他の諸宗教の信者であるという数値が出ています。


全国社寺教会等・信者数 平成19年12月31日現在

宗教 信者数 割合
神道系 105,824,798 51.2%
仏教系 89,540,834 43.3%
キリスト教系 2,143,710 1.0%
諸教系 9,086,268 4.4%
合計 206,595,610 100.0%

文化庁の『宗教統計調査』より
http://www.mext.go.jp/b_menu/toukei/001/index39.htm

古来より日本では、神仏は調和するものであり、10世紀頃から神仏習合というようになりました。神道と仏教とは相互排他的な宗教では決してなく、融合することで日本独自の発展を遂げたといえるでしょう。

実際、お家に神棚と仏壇を祀ることが多く、大半が両方を崇敬していると答えているため、この数字は特定宗教に対する信者比率の実態を表していません(ちなみに、神道・仏教・キリスト教・諸宗教の信者数を合計すると2億人を超え、日本の総人口の約1.6倍になってしまいます)。

日本人は、宗教に関して「多宗教で無宗教」と言われることがあります。お正月は神社仏閣に初詣、2月は節分やバレンタインデー、3月と9月はお彼岸、8月はお盆、12月はクリスマスに大晦日、収穫の秋には七五三、五穀豊穣に感謝して秋祭りを行っています。そして、これらに赤ちゃんのお宮参りをはじめとする冠婚葬祭が加わります。これらは、神道、仏教、キリスト教などに、様々な宗教に由来する行事です。

日本人は、様々な文化的かつ宗教的な事柄を生活の中に受け入れる寛容さを持っています。これは他国にはあまり見られない大きな特徴です。日本人は他の国の人々から「多宗教で無宗教」であると見られることがありますが、日本人の宗教観は文化習俗的な意味合いが強いということが言えそうです。

さて、日本人に「あなたの宗教は何ですか?」と尋ねると、「私は無宗教です」とか、「特定の宗教や信仰を持っていません」と答える人がいます。しかし、だからといって日本人は無神論者かというと、そうではありません。

日本人は、家族、親戚、ご近所、地区、自治会、町村といった地域共同体の結びつきによって、助け合いながら生活を営んできました。また、「うちは◎◎宗で檀那寺(菩提寺)は○○寺である。□□神社の氏子である」という認識のもと、神事・仏事の年間行事に参加することを通してご先祖様が崇拝され、大地や海川の恵みに感謝し、大自然や偉大なものに対する畏敬の念が知らず知らずのうちに身に付いてきたのです。さらに日本人は吉日や験(げん)といった縁起担ぎがとても好きです。

そんな、日本人が受け継いできた、八百万(やおよろず)の神々とご先祖様への崇拝をベースとした生活文化や行動をグローバルな視点で考える時、むしろ信仰心は篤いと言えるのではないでしょうか。

明治維新により、神仏分離が国家によって打ち出されました。さらに、戦後、アメリカをはじめとする欧米文化がどっと流入し、日本文化と融合して定着しました。そして反面、核家族化、住宅事情の変化、交通・通信手段の多様化により、個人主義が台頭し、地域共同体が崩れ、年中行事も信仰色が薄められています。お盆や正月も長期の休暇と考える傾向です。しかも、公教育では宗教的情操の指導もほとんどなされません。

宗教の大切なところは、自分の拠り所となる、人間としての生き方の規準を持つことです。日本人の拠り所は、神仏を大いなる存在として認め、祈り、そのお導きに従って、自分の人生を歩むことです。これは本当に、世界に誇るべき日本人のすばらしい伝統であり、日本人の健全性の基盤といっても過言ではありません。

複雑な現代社会にあって心の豊かさを取り戻すことが叫ばれています。自分だけが良ければいいという利己主義ではなく、お互い様や共生の精神が不可欠です。今こそ改めて宗教を考え、次代へ良き日本の伝統や文化習俗を次代に伝えるためにも、宗教心を日常生活に生かすべきではないでしょうか。

脳死状態になった時、臓器を提供したいと思っていますが、「臓器を提供したら成仏できない」と聞きました。本当でしょうか? ドナーとしての意志をはっきりさせてもよろしいでしょうか?

日本と欧米では死生観に違いがあります。たとえば、キリスト教では、人が死んだ時、魂は天国に行って神の国で復活すると教えるため、残された亡骸は「物」と考えたりします。魂の抜けた肉体が他の人に役立つのなら提供したいと、本人も家族も考えやすいのでしょう。

一方、日本では、遺体には「何か」が残っているので、供養して成仏させなければならないと考えることがあるようです。欧米と比べると、亡骸への執着が強く、「臓器を提供したら成仏できない」とおっしゃるような対応を生んでいるのかも知れません。

また、欧米は個人主義が浸透しているため、自分のいのちの終え方やドナーとしての意志表示をしやすいのかも知れません。

仏教国でも、タイや台湾などのように、臓器移植を人生最後の布施であると積極的に考える場合もありますから、「臓器を提供したら成仏できない」という考え方が仏教に基づいているとは言えません。

ドナーとなることは、ご自分の価値観や死生観とも大きく関係があり、ご家族などの意見も影響します。ご自分で、あるいはご家族と、いのちのあり方についてお考えになった末、結論を出されればよろしいかと思います。


※脳死及び臓器移植に関する天台宗の意見については、「天台の主張」もご参照下さい。

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