天台宗について

法話集

No.241うしろ姿

 時代小説の名手として知られ、現在も多くのファンを抱える「藤沢周平」の作品に『うしろ姿』という短編がある。

左官の手間取りの六助には、酔うと、誰彼かまわず家に連れてくるという奇癖があった。相手も酔っぱらっていて、女房のおはまはなだめて帰すのに大苦労する。六助は翌朝になると、そんな顛末をほとんど覚えていない。
今度連れてきたのは、なんと白髪ぼうぼう、身体から異臭を放つ、乞食ばあさんだった。その婆さんに六助は親切で優しい口調で「もう、安心ですよ、ささお上がんなさい」と言う。そんな六助は酔っぱらってぐらぐらしている。
誘われて婆さんは、上がって部屋の隅に小さくなって座った。
おはまは、婆さんに「家はあるの」と聞くと、家はあるけれど場所は言えないと、奇妙なことを言った。当然おはまは、家へ帰ってくれと言う。婆さんは出て行きたくない様子だったが、しかたなく夜の中に出て行こうとする。おはまはその小さな背を見て、この寒くて暗い闇に放り出すわけにも行かず、「一晩だけだよ、分かったわね」と泊めることにした。

 その後六助の家に居つくようになった婆さんと六助と女房のおはまや子供達とが織りなすほんの些細な物語が続き最後は実は裕福な商家の隠居婆さんだった素性が明かされそれぞれ元の生活に戻る話だが余韻の残る作品だ。
 我々庶民はともすれば日々の生活の中で肉親への愛情もそれぞれの生活の中で素直に表現できずに少しずつ気持ちを抑えて日々を過ごし生きて行かねばならない。
 まさに心の中に塵や芥をためた状態で真面目ならば真面目な人間ほどその澱は深くなる。
 その澱をひとは強制的にかき混ぜることによって心全体に行き渡たらせ忘れようとするが時にそれができなくなり些細な行動や深いおもいやりを示し心のバランスをとっているわけだ。

 「掃けばちり払えばまたも散り積もる庭の落ち葉もひとの心も」

 この物語では最後に女房のおはまが本当は喉から手が出るほど欲しい謝礼の申し出を断る場面が心地よく、『法句経』第一雙要の十八にも通じている。

「善きことをなす者は
 いまによろこび
 のちによろこび
 ふたつながらによろこぶ
 “善きことをわれはなせり”と
 かく思いてよろこぶ
 かくて幸ある行路を歩めば
 いよいよこころたのしむなり」

貧しくも潔いその姿は何とも温かい。

<参考文献>
『法句経』講談社学術文庫 友松圓諦訳
『驟り雨』新潮文庫 藤沢周平著


(文・九州西教区 岩藏寺 中村 博信)
掲載日:2024年07月01日

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