私が小学5年の時、私の町に大手機械メーカーが名古屋工場を私の地元に建設され、それに伴い多くの下請け工場が作られました。四国新居浜からの人々が来られ、地元小学校にも新居浜から転校生が多く入られました。
多くの住民の中にA君のおばあさんがおられました。新しい生活環境にもかかわらず地元に溶け込む姿は何十年も前から居られるように感じたのを覚えています。
引っ越しされてから一か月もたたないうちに地元の同年配の人々と交流が始まり寺の地蔵講にも積極的に参加され益々交流を広げていかれました。好奇心旺盛で明るく気さくな人柄によるのみでなく、本人の自覚がそこにあったと思われます。
A君とは中学・高校現在に至るまで友人として過ごしてきました。その間おばあさんから四国の押しずしをいただいたり、なぜかこずかいを頂いたりしました。子供にとって優しい気さくなおばあさんでした。
ある時、A君のお母さんからおばあさんが毎年日にちを決めて必ず行李を開け、中の物を点検するようにしているとのこと、その仕事は嫁である私の仕事であると聞かされました。私が何の点検と質問するとおばあさんが亡くなった時の死に衣装だと伺い優しく気さくなおばあさんの顔が浮かんだのと同時に死にゆく人の覚悟を感じました。
自分ができない死の旅路の準備を嫁の目の前で虫干しすることでおばあさんの意思を嫁に伝える作業であったと思われます。
いつの日か死にゆく人の心得はそれぞれではあるが死にゆく覚悟だけはもって日々暮らすことの必要性はこのおばあさんに教わった気がします。
(文・東海教区 常覺院 村上 圓竜)