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| ■ 無財の七施(むざいのしちせ) |
年があらたまり、この一年をどのような心がけで過ごしたらよいか?ということで、先月は「六波羅蜜」を紹介しました。今月は引き続き、普段の生活の中での心掛けるべきことについて紹介させていただきます。『雑宝蔵経』というお経に「無財の七施」という教えがあります。先月の「六波羅蜜」の最初に出てきた「布施波羅蜜」を具体化した教えでもあり、無財の七施を行うことで「大いなる果報を獲(え)る」と説かれています。 1.眼施(げんせ)「やさしい眼差(まなざ)しで人に接する」 「目は口ほどにものを言う」といいますように、相手の目を見ると、その思いはある程度わかります。相手を思いやる心で見つめると自然にやさしい眼差しとなり、人は安心します。自らの目を通して相手に心が伝わって、相手も自分の気持ちを理解し、お互いが打ち解けることができることでしょう。 2.和顔悦色施(わげんえつじきせ)「にこやかな顔で接する」 眼施と同様、顔はその人の気持ちを表します。ステキな笑顔、和やかな笑顔を見ると幸せな気持ちになります。そして周りにも笑顔が広がります。人生では腹の立つこともたくさんありますが、暮らしの中ではいつもニコニコ、なごやかで穏やかな笑顔を絶やさぬよう心がけたいものです。 3.言辞施(ごんじせ)「やさしい言葉で接する」 私たちは言葉一つで相手を喜ばせたり、逆に傷つけたり、悲しませたりする場合があります。相手を思いやるやさしい言葉で接していきましょう。「こんにちは」「ありがとう」「おつかれさま」「お世話になります」など、何事にもあいさつや感謝の言葉がお互いの理解を深める第一歩です。 4.身施(しんせ)「自分の身体でできることで奉仕する」 重い荷物を持ってあげる、困っている人を助ける、お年寄りや体の不自由な方をお助けするというような身体でできる奉仕です。どんなによいことと心で思っても、それが実行できなければ意味をなしません。よいことを思いついたら実行し、自ら進んで他のために尽くしましょう。その結果、相手に喜んでいただくと同時に、自己の心も高められるのです。 5.心施(しんせ)「他のために心をくばる」 心の持ち方で物事の見方が変わってしまうように、心はとても繊細なもので、自分の心が言葉遣いや態度に映し出されます。自分だけがよければいいというのではなく、他人の痛みや苦しみを自らのものとして感じ取れれば言うことはありません。慈悲の心、思いやりの心があれば、それが自然とやさしい顔や眼差しになって表れてくることでしょう。 6.床座施(しょうざせ)「席や場所を譲る」 「どうぞ」の一言で、電車や会場でお年寄りや身体が不自由な方に席を譲ることです。また、この言葉には全てのものを分かち合い、譲り合う心が大切であるという意味も含まれています。場合によっては自分の地位を譲って後のことを託すという意味も含まれるでしょう。 7.房舎施(ぼうじゃせ)「自分の家を提供する」 四国にはお遍路さんをもてなす「お接待」(おせったい)という習慣が残っています。人を家に泊めてあげたり、休息の場を提供したりすることは大変なこともありましょうが、普段から来客に対してあたたかくおもてなしをするように心がけましょう。また、軒下など風雨をしのぐ所を提供することや、雨の時に相手に傘を差しかける思いやりの行為も房舎施の一つといえるでしょう。 以上のように私たちの日常生活において、たとえお金がなくても、物がなくても、周りの人々に喜びを与え、周りの人々に少しでも喜んでいただけるのが「無財の七施」の実践です。このような身近な奉仕によって、自己を高めることができるとともに、世の中の人々の心を和ませることができるのです。また、この中の一つでも真心をこめて実行できれば、自ずと他のこともできるようになっていくのではないでしょうか。そうすれば、周りの人たちと仲良くでき、自らの心は安らぎ、ともに幸せに日々の生活が送れるに違いありません。 |
| ■ 六波羅蜜(ろくはらみつ) |
昨年は東日本大震災をはじめ多くの災害にみまわれた年でした。年も変わり心機一転すがすがしい気持ちで新年を迎えられた方も多いのではないでしょうか?「一年の計は元旦にあり」は中国の昔のことわざですが、今年一年充実した日々を過ごすために年があらたまったこの時期に新しいことに挑戦するなど計画をたてることはもちろん大切なことですが、今一度日々の生活を見つめ直すことも大切なことではないでしょうか?ではどんなことを心掛けて日々暮らしていけば良いのでしょうか?仏教においては菩薩は悟りを得るためにいろいろな修行をしますが、その一つに「六波羅蜜」があります。これは6種類の実践すべき徳目のことで、 1.a)布施波羅蜜・与えること。具体的には財施(喜捨をすること)。b)法施(真理を教えること)。c)無畏施(恐怖を除き安心を与えること)。2.持戒波羅蜜(戒律を守ること)。3.忍辱波羅蜜(苦難に堪え忍ぶこと、あるいは怒りを捨てること)。4.精進波羅蜜(真実の道をたゆまず実践し、努力すること)。5.禅定波羅蜜(精神を統一し、安定させること)。6.智慧(般若)波羅蜜(前述の5つを実践することにより真理を見極める智慧を得ること)。 どれ一つとっても実践するのは非常に難しいですが、わかっていてもなかなかできないことを、一つでも実践できるように日々心掛けていきたいものです。 |
| ■ 方便(ほうべん) |
うそをついた後に、弁解の意味で「うそも方便」という言葉がよく使われますが、本来は少しニュアンスが違うようです。方便とは本来、我々衆生を導く為の優れた教化方法や、巧みな手段を意味します。この方便の考え方は『法華経』で重視され、七つの喩え話(法華七喩)の中で説かれています。 その中の一例として、最初に登場する「三車火宅の喩」(譬喩品第三)を紹介します。 「あるところに大金持ちがいました。ずいぶん年をとっていましたが、財産は限りなくあり、使用人もたくさんいて、全部で百名ぐらいの人と暮らしていました。主人が住んでいる邸宅はとても大きく立派でしたが、門は一つしかなく、とても古くて、いまにも壊れそうな状態でした。ある時、この邸宅が火事になり、火の回りが早く、あっという間に火に包まれてしまいました。主人は自分の子どもたちを助けようと捜しました。すると、子供たちは火事に気付かないのか、無邪気に邸宅の中で遊んでいます。この邸宅から外に出るように声をかけますが、子どもたちは火事の経験がないため火の恐ろしさを知らないのか、言うことを聞きません。そこで主人は以前から子供たちが欲しがっていた、おもちゃを思い出します。羊が引く車、鹿が引く車、牛が引く車です。主人は子どもたちに『おまえたちが欲しがっていた車が門の外に並んでいるぞ!早く外に出てこい!』と叫びます。それを聞いた子どもたちが喜び勇んで外に出てくると、主人は三つの車ではなく、別に用意した大きな白い牛が引く豪華な車(大白牛車)を子どもたちに与えました。」という話です。 これは次のようなことを意味しています。つまり登場人物の主人が仏で、子どもがわれわれ衆生です。邸宅の中(三界)に居る子どもは火事が間近にせまっていても、目の前の遊びに夢中で(煩悩に覆われて)そのことに気付きません。また、主人である父(仏)の言葉(仏法)に耳を傾けることをしません。そこで、主人は子どもに三車(声聞乗・縁覚乗・菩薩乗の三乗の教え)を用意して外につれ出し助け、大きな白い牛が引く豪華な車(一乗の教え)を与えたのです。 つまり、われわれ衆生をまず、三乗の教えで仮に外に連れ出し、そこから更に、これら三乗の教えを捨てて一乗の教えに導こうとする仏の働き(方便)を譬え話に織り込んで、説いているのです。 以上のように、方便とは本来の目的のために仮に用いる方法のことで、決して単なるうそではありません。 |
| ■ 一大事(いちだいじ) |
「国家の一大事」「人生の一大事」「お家の一大事」など、簡単には解決できそうもないとても大きなトラブルが起こった時などに使うこの「一大事」という言葉は、もともとは『法華経』が語源です。『法華経方便品』に「諸佛世尊は唯(ただ)一大事の因縁を以ての故にのみ世に出現したもうと名づくるや。諸佛世尊は、衆生をして佛の知見を開かしめ、清浄なることを得せしめんと欲するが故に、世に出現したまふ。衆生に佛知見を示さんと欲するが故に、世に出現したまふ。衆生をして佛知見を悟らしめんと欲するが故に、世に出現したまふ。衆生をして佛知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したまふ。舎利弗、是を諸佛は唯(ただ)一大事の因縁を以ての故に世に出現したまふとなすなり。」とあり、「仏がこの世に出現されたのは、衆生に仏知見を開き、示し、悟らせ、入らしめるため」とあるように、仏がこの世に出現した理由が説かれています。 まず「仏知見」とは「仏のものの見方」のことで、どのような見方かというと「世界や人生は無常(生滅・変化して常住でないこと)・無我(我の存在がないこと)であり、この無常・無我であることが諸法(一切存在)の実相(ありのままの真実の姿)であると認識すること」が、「仏のものの見方」です。 さらに、智慧には三種類があり、「道種智(どうしゅち)・万物は個々別々であると差別的に見て実体を知ること。」「一切智(いっさいち)・万物は平等であると共通の立場から見て実体を知ること」「一切種智(いっさいしゅち)・差別にも平等にもとらわれず、どちらにもかたよらずに、差別と平等とを同時に生かしてものを見て実体を知ること」であり、これらのうち、三番目の「一切種智」によって中道(二つの極端な立場のどちらからも離れた自由な立場)実相であると照見(間違った考えのもととなる邪心や邪見を棄てて、真実をありのままに見ること)することが「仏のものの見方」つまり「仏知見」です。 次に「開き、示し、悟らせ、入らしめる」というのは「開示悟入(かいじごにゅう)」ともいい、開は「藏の戸を開くが如く」、示は「藏の中の宝を見るが如く」、悟は「藏に在る宝を一々記憶するが如く」、入は「藏に入って自由に宝を手にするようなもの」と喩えられるように、仏が仏の知見を開き、仏の知見を我々衆生に対して示されると、衆生は仏の知見を悟り、仏の知見に拠って日々の生活を送っていく、この仏知見を中心とした仏と我々衆生の関係がつまり「一大事因縁」という、『法華経』にいう「一大事(仏がこの世に出現された)・因縁(理由)」として説かれるものです。 以上のように「一大事」とは、本来は「仏がこの世に出現されるほどのとても大きな事」を指し、もとは良い意味の言葉でしたが、現在は主に悪い意味で大きな問題などが起こった時に用いられています。 |
| ■ 四苦八苦(しくはっく) |
とても苦労した時や苦悩したときに「四苦八苦する」と表現したり、人間のあらゆる悩みのことを指して「四苦八苦」といいますが、では具体的に四苦八苦とはどのようなことをいうのでしょうか?まず、苦とはサンスクリット語のduhkha(ドウクハ)に由来し、「ドウクハ」の「ドウ」は「悪い」という意味で、「クハ」は「運命」「状態」を表します。直訳すると苦とは、悪い運命、悪い状態となりますが、阿毘達磨(あびだるま)(紀元前2世紀頃の仏教文献)によると苦とは逼悩(ひつのう)と定義され、「圧迫して悩ます」という意味をもちます。つまり苦とは、自分ではどうにもならないことをいうのです。 次に四苦八苦の四苦ですが、原始仏教や部派仏教の経典によると、四苦とは「人間として逃れられない必然的な苦しみ」である生苦(しょうく)(生まれてくる苦しみ)、老苦(ろうく)(老いていく苦しみ)、病苦(びょうく)(病気になる苦しみ)、死苦(しく)(死ぬ苦しみ)をいい、さらに「人間として味わう精神的な苦しみ」である、怨憎会苦(おんぞうえく)(嫌いな人との出会いによる苦しみ)、愛別離苦(あいべつりく)(愛する人との別れによる苦しみ)、求不得苦(ぐふとっく)(求めても得られない事を求めてしまう欲から生じる苦しみ)、五蘊盛苦(ごうんじょうく)(人の存在そのものからくる苦しみ)の以上四つの苦を加えて四苦八苦といいます。 以上のように本来は四苦と八苦で合計八種類の苦しみを表していましたが、やがて、一般的に人間のあらゆる苦しみを指す言葉として用いられるようになりました。 |
| ■ 有頂天(うちょうてん) |
「人が喜びや得意の絶頂にいて我を忘れている状態」や「物事に熱中し他を顧みない状態」にあることを「有頂天」と表現しますが、この「有頂天」という言葉は元々、仏教の世界観が語源です。まず、仏典における「天」はサンスクリット語のdeva(本来輝くもの)の訳で神を意味すると同時に神が住む場所(天界)をも意味します。 古代インドの僧侶、世親(せしん・ヴァスバンドゥ)が著した『倶舎論(くしゃろん)』によると、「有頂天とは三界(さんがい)の最も上に位置する天(処)」のことを指します。三界とはわれわれ衆生が生まれて輪廻する三つの迷いの世界のことで、生きものが住む世界全体のことを指し、下から「欲界(よっかい)」「色界(しきかい)」「無色界(むしきかい)」に分かれています。 一番下の「欲界」は食欲・淫欲・睡眠欲の本能的な欲望に支配される生きものの世界で、下から地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の「六道(ろくどう)」で構成され、さらに天は六つの世界に分かれ、下から四大王衆天(しだいおうしゅてん)・三十三天(さんじゅうさんてん)・夜摩天(やまてん)・覩史多天(としたてん)・楽変化天(らくへんげてん)・他化自在天(たけじざいてん)と呼び「六欲天(ろくよくてん)」といいます。 次の「色界」は「欲界」の上にあり、欲望は超越したが、物質的条件(五蘊(ごうん)のうちの色蘊(しきうん))にとらわれた生きものの住む世界で、下から初禅(しょぜん)、第二禅(だいにぜん)、第三禅(だいさんぜん)、第四禅(だいしぜん)の四つの世界で構成され、初禅には梵衆天(ぼんしゅてん)・梵輔天(ぼんほてん)・大梵天(だいぼんてん)、第二禅には少光天(しょうこうてん)・無量光天(むりょうこうてん)・極光浄天(ごくこうじょうてん)、第三禅には少浄天(しょうじょうてん)・無量浄天(むりょうじょうてん)・遍浄天(へんじょうてん)、第四禅には無雲天(むうんてん)・福生天(ふくしょうてん)・広果天(こうかてん)・無煩天(むぼんてん)・無熱天(むねつてん)・善現天(ぜんげんてん)・善見天(ぜんけんてん)・色究竟天(しきくきょうてん)があり、これらを「色界の十七天」といいます。 最後に最も上の「無色界」は欲望も物質的条件も超越し、五蘊(ごうん)のうちの色蘊(しきうん)を除く受(じゅ)・想(そう)・行(ぎょう)・識(しき)の四つの構成要素からなる精神的条件のみを有する生きものが住む世界で、下から空無辺天(くうむへんてん)(処)、識無辺天(しきむへんてん)(処)、無所有天(むしょうてん)(処)、非想非非想天(ひそうひひそうてん)(処)があり、総称して「無色界の四天」といいます。 これら三界・二十七天の最高の位置にある、非想非非想天(処)を全ての世界の中で最上の場所にある(頂点に有る)ことから、有頂天とも呼び、また、ここから有頂天に登りつめる事、つまり絶頂を極めるの意味から転じて、喜びで夢中になることを有頂天になると表現するようになったのです。 |
| ■ 上品・下品(じょうひん・げひん) |
私たちは毎日の生活の中で人の性質・態度や、物の善し悪しを表現するとき「品性・品格・品」という言葉を使い、「あの人は上品な人だ」「下品な言い方はやめなさい」「下品な色」というように人や物にそなわる様子や風格を表す時には「上品・下品」という言葉を使います。一般的にこれら上品・下品などいわゆる品について考えるとき、その人にそなわっている人間性や風格の優劣を、また物については出来映えなどを指しますが、これらの言葉は仏教においては別の意味があります。 まず、仏典において「品」には2つの意味があり、一つ目はサンスクリット語vargaの訳で「同類のまとまり、段落」の意。二つ目はサンスクリット語prakaraの訳で「種類」を意味します。 また、大乗仏教経典の一つ『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』によると、阿弥陀仏の世界である西方極楽浄土に往生する人を生前に積んだ功徳の違いに応じて9種類に分類しており、これらを総称して「九品(くほん)」と言います。 その九品とは、 上品上生(じょうぼんじょうしょう)三心に象徴される深く往生を願う心を持ち、大乗方等経典を読誦する人。 上品中生(じょうぼんちゅうしょう)大乗方等経典を読誦しなくてもその意味をよく理解し、深く因果を信じ、大乗を誹謗しない人。 上品下生(じょうぼんげしょう) 因果を信じ、大乗を誹謗せず、ひたすらに悟りの道を求める人。 中品上生(ちゅうぼんじょうしょう)五戒・八戒を守り、五逆を行わない人。 中品中生(ちゅうぼんちゅうしょう)一日二十四時間、八戒もしくは沙弥戒(十戒)もしくは具足戒を守り、規律正しい行動が出来る人。 下品上生(げぼんじょうしょう) 大乗方等経典を誹謗しないが、悪業を働き、恥じ入ることのない人。 下品中生(げぼんちゅうしょう) 五戒・八戒および具足戒を犯し、寺院や僧侶のものを盗み、間違った説法をしても恥じ入ることのない人。 下品下生(げぼんげしょう)五逆・十悪、不善を行う人。 以上のように、本来は全く違った意味を持っていた仏教用語の「上品・下品」が、やがて現在私たちが使うような、人の性質・態度、物の善し悪しを表す言葉として定着してきたのです。 |
| ■ 名刹・古刹(めいさつ・こさつ) |
名刹・古刹というと、有名な由緒あるお寺や歴史があり古いお寺をいいますが、それではなぜ「刹」の字がお寺の事をさすのでしょうか?刹には二つの意味があります。一つめはサンスクリット語のksetraの音写で、刹多羅(せつたら)や差多羅(さたら)と表記され、土・地・田・国・国土などと意訳されます。また、土地・領地・田畑・国土などを意味し、転じて神聖な土地・聖地や仏が現れて衆生を教化する世界つまり仏国土をも意味する語となりました。 二つめの意味は、サンスクリット語のyastiの音写で、柱・竿などと意訳されます。古代インドや西域ではお寺の堂塔の前に柱や竿を建て、先端に宝珠・火焔の目印をつけてお寺の標識としたり、僧侶が修行の末、一法を得た時、柱の先端に旗を付けてお寺の周辺や遠方の人に知らせたそうで、そうしたことからこの語が、やがて寺院を意味するようになったとういうことです。 |
| ■ 醍醐味(だいごみ) |
日常会話の中で「○○の醍醐味を味わった」とよく表現されますが、どんな味なんでしょうか?醍醐味とは、牛乳を精製する過程で経る、乳味(にゅうみ)・酪味(らくみ)・生酥味(しょうそみ)・熟酥味(じゅくそみ)・醍醐味の五段階の味の事で、大乗経典の『大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)』巻第14に「牛より乳を出し、乳より酪を出し、酪より生酥を出し、生酥より熟酥を出し、熟酥より醍醐を出す。醍醐は最上で、もしこれを服するもの有れば病は皆除かれる。故に諸々の薬が悉く其の中に入っている。仏の教えもまた同じく、仏より十二部経(じゅうにぶきょう)を出し、十二部経より修多羅(しゅたら)を出し、修多羅より方等経(ほうどうきょう)を出し、方等経より般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)を出し、般若波羅蜜より大涅槃(だいねはん)を出す」とあり醍醐味は最上の味で、大涅槃も同じように最上の教えであることがたとえとして書かれています。これを「五味相生の譬(ごみそうしょうのたとえ)」といいますが、このたとえからその道の心髄や最高の味を味わったり、経験したときに醍醐味を味わうというようになりました。 |
| ■ 億劫(おっくう) |
お経の中にはいろいろな単位が出てきます。例えば、時間を表す「刹那(せつな)」、距離を表す「由旬(ゆじゅん)」、数を表す「那由他(なゆた)」などいろいろありますが、これらの中で時間を表す最長の単位を「劫(こう)」といいます。劫はサンスクリット語のkalpaの音写で、劫波(こうは)や劫簸(こうは)とも記されます。それでは具体的にどの位の長さでしょうか。『雑阿含経(ぞうあごんきょう)』巻第34や『大智度論(だいちどろん)』巻第5・巻第38などに2つの譬え話が書かれています。 1つ目は「四方が千里の石山があり、この石山を長寿の人が百年に一度細くて柔らかい衣で撫でて、これを繰り返し、石山が無くなってもまだ一劫は終わらない。」2つ目は「四方が千里の大きな城があり、その中を芥子粒で満たして、長寿の人が百年に一度芥子粒を一粒取り出し、これを繰り返し、芥子粒が全て無くなってもまだ一劫は終わらない。」というようにいずれの譬え話も途方もなく長い時間を表しています。 さらにこの劫を1億倍すると「億劫(おっこう)」という単位になり、この億劫は本来はとても長い時間を表しましたが、やがて「時間が長くかかってやりきれない事やめんどくさい事」を「億劫(おっくう)」というようになりました。 |
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