経典を読誦するとき、まず「三帰依文
(さんきえもん)」を唱えることが多い。その最初の句が「人身受け難し今すでに受く」です。つまり「人間としての生をうけるのは難しいが、いま人間として生きている」ということです。「三帰依文」は「仏法を聞くことは難しいが、いま聞くことができた。だからこの一生の間に仏道を成し遂げなければ、他のどの世の中で悟りを開くことができようか。人々とともに心より仏法僧の三宝を信じ敬います。」と続きます。
伝教大師も『願文』で「人間に生れることは難しいが必ず老いて死んでいく。善心をおこすことは難しいが忘れがちである。だから釈尊は、大海に落とした針を拾い上げたり、須弥山の頂きから糸を垂らしてふもとの針の穴に通すように、人間に生まれることの難しさを説かれた」と述べています。
私がいまここに生きていることは実に「有難い」ことなのです。ではどうして人間に生まれるのは難しいのでしょうか。古代インド人は六道輪廻
(ろくどうりんね)を信じていました。死後はその生前の行為によって地獄・餓鬼
(がき)・畜生・阿修羅
(あしゅら)・人・天の六道のどこかに生まれ変わるというのです。それぞれ生まれ変わりの確率がどのくらいかはわかりませんが、例えば畜生(動物)は地球上にどのくらいいるでしょうか。昔の人の考えですので微生物はカウントしなくても、昆虫類など含めおそらく兆の二乗くらいはいるのではないでしょうか。いずれにせよ人類の比ではありません。いま人間として生きていることは、ふつうは当り前のように考えているでしょう。その当り前が重い意味を持っているのです。
ところで「一切衆生悉有仏性
(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」といって、すべての生きものには仏性(仏と同じ本性)がそなわっているとされます。インドでは衆生に植物は含まれなかったようですが、中国仏教で植物や瓦礫
(がれき)などにも仏性があるという考えがおこり、日本では「草木国土悉皆成仏
(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)」の思想が一般化しました。動物はもとより植物や自然にも仏性があり成仏できるというのです。そうすると「人身受け難し今すでに受く」として、仏教にかかわるものを人間に特化することはないように思えます。しかし経典を読んだり仏教を学べるものは人間に限ります(天の神々もそうかもしれませんが)。犬や猫にはできません。文字通り「馬の耳に念仏」です。
動物に仏性があっても潜在化しており、輪廻転生を繰り返して善行を積むことにより、幸いにも人間に生まれ変わったとき、はじめて仏法を聞くことができ成仏の道が開けるのでしょう。
私たちがいま生きているという事実は動かせません。そこでどう生きるかが問われているのです。有難い人間としての生をいただいたからには、それぞれの立場でよりよく生きることこそが仏の御心にかなうことなのです。
(文・信越教区 国分寺 塩入 法道)