
近年、AI技術の進歩が目覚ましく、コンピューターは私たちの知識を遥かに凌駕する存在となりました。日常の疑問もスマートフォンを使えば瞬時に答えを得られます。特に「生成AI」の発展には目を見張るものがあります。かつては誤った情報や曖昧な回答が多かったものの、現在では専門的な仏教の問いにも的確な答えを返すほどに進化しました。数十年前には想像もできなかったことですが、今や誰もが「進化し続ける字引」を手に入れたのです。
しかし、これほどの情報が容易に手に入る一方で、私たちは「情報の海」に溺れてしまいそうになります。AIの試算によれば、インターネット上の全情報を処理するには、一人の人間が三百億年を要するといいます。そんな莫大な情報をポケットの中に入れながら私たちは日々生きているのです。かつては知識を多く持つ者が「生き字引」として敬われました。しかし、誰もが膨大な情報にアクセスできるようになった現代では、知識そのものの価値が変わりつつあります。世間では、「知識の量」よりも「検索力」が重視されるようにもなっております。
では、この情報社会となって知識の価値が相対的に下がるこれからの時代に本当に大切なことは何でしょうか。それこそが「智慧」ではないでしょうか。知識はただ蓄えるだけでは意味を成しません。どれほど多くの情報を持っていたとしても、それを自らの経験として昇華し、人生に活かさなければ無用の長物となります。知識は書籍やデジタル媒体を通じて共有できますが、智慧は単なる情報ではなく、実践を通じてしか得られない真の理解です。
仏教では、智慧を最も重んじています。たとえば、「諸行無常」という教えは単なる知識ではなく、深い智慧そのものです。「この世のすべては移ろいゆく」と言葉で知っていても、それを実感することは容易ではありません。身体に老いを感じたとき、大切な人を失ったとき、初めて身を以て「諸行無常」を理解することがあります。その瞬間、知識は智慧へと変わるのです。ただ知っているだけでは、人生の苦しみや試練に対処することはできません。しかし、智慧として体得すれば、それが生きる力となり、困難を乗り越える礎となるのです。
現代は、知識が溢れ、瞬時に答えが得られる時代です。しかし、本当に大切なことは「知ること」ではなく、「理解し、実践すること」です。情報の氾濫の中で、何が真に価値あるものなのかを見極め、それを智慧へと昇華していく生き方こそが、AI時代を生きる私たちに求められる姿なのではないでしょうか。
(文・東京教区 普賢寺 小野 常寛)