私が住職を務めております寺は、のどかな農村地帯にあります。二十七歳で住職を拝命してから今年で四十三年目になりました。住職になり立ての頃の法事の様子が懐かしく思い出されますので、ひとつご紹介いたします。
午前十一時からの法要ということで少し前に自宅へお伺いして、お茶などをご馳走になりながら休んでおりました。そろそろ時間ですので始めましょうかというと、まだ誰々が来ていないというのです。忘れているんじゃないのかなどといいながら電話すると、本人が電話に出て今出かけるところだったと答えます。間もなく来るから少し待ってほしいというので、到着するのを待って予定より遅れて法要が始まります。読経焼香が終わり次は墓参りかと思うとそうではありません。昼食を準備するからといわれて全員が部屋の隅の方へ退避します。準備ができて昼食を済ませると今度は食休みです。なかには昼寝をしている人もいます。午後一時を過ぎたころそれでは墓参りに行きましょうということで、腹ごなしも兼ねて歩いて墓参りに出かけます。一時間ほどして家に戻ると料理や酒などが用意してあり供養のお斎が始まります。その時間は二時間から三時間に及びますから、一日がかりの法事になるわけです。しかしながら、そのような積み重ねがあり檀家の人たちと親しくなり、家も徐々に覚えることができたのです。
現在では法事の様子も変わりましたが、お墓は地区ごとに共同墓地がありますから、寺よりもお墓に近い自宅で法事を行うことのほうが多いのです。法事には小さい木魚を持参してたたきながら読経をします。終わると私のそばに子供が寄って来てバイを持ってポクポクとたたこうとします。親がつかさず「こら、だめ。」と止めようとしますが、私が「ここをたたくんだよ。」といってたたかせてあげると、喜んで満足そうな笑顔を浮かべています。
「南無阿弥陀仏」と唱えると、「南無阿弥陀仏」とまねをする子もいます。そのような時は「仏さまも喜んでいるよ。」と褒めてあげます。周囲の大人たちも笑顔になり「弟子にしてもらえ。」などの声もかかります。伝教大師さまは「この法をただひとことも説く人は、四方の仏の使いならずや」と詠んでおられます。「法華経」法師品ですすめる説法の功徳を讃えた歌ですが、仏さまのみ教えを一言でも説き聞かせる人は、仏さまのお使いであるというのです。興味を引かれ戯れに木魚をたたいたり、念仏をまねて口ずさんだりする子供の姿に尊い仏の姿を見るのであります。
(文・福島教区 圓福寺 矢島 寛章)