法話集

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仏さまのお顔
 
(問)お寺巡りをしていると時々とても怖い顔をした仏さまにお目にかかることがあります。仏さまのような、といえば優しさの代名詞のようにいわれるのにどうして恐い顔をした仏さまがいるのですか。

(答)そうですね。恐いお顔の代表としてよくお目にかかるのは「お不動さま」と呼ばれる不動明王(ふどうみょうおう)でしょうか。眼をカッと見開き、牙をむいた忿怒(ふんぬ)の相で、手には剣と綱を持ち背後には真っ赤な炎が燃えさかっている、恐いお姿です。この不動明王と降三世明王(ごうざんぜみょうおう)、軍茶利明王(ぐんだりみょうおう)、大威徳明王(だいいとくみょうおう)、金剛夜叉明王(こんごうやしゃみょうおう)の五大明王、また、愛染明王(あいぜんみょうおう)、大元帥明王(だいげんすいみょうおう)、烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)と呼ばれる明王などがおられますが、おおかたは、お不動さまのような忿怒相をしています。明王とは、愚闇(ぐあん)を破る智慧(ちえ)の光明(こうみょう)〈真言(しんごん)の意〉をもつお方という意味です。そして、一筋縄(ひとすじなわ)ではいかない人を導くために忿怒の相をしているのです。
 この頃は父親がみんな優しくなってしまったと言われるのですが、昔は雷おやじといわれるような恐い父親も結構いたものです。母親は優しいほうがよいのですが、その一方に、時には厳しく恐い父親がいてこそ子供は健全に育つといえましょう。
 仏さまにも、こんな父親母親に似た役目があるのです。人間もいろいろですから、優しい言葉だけではきいてくれない人もいます。そんな人には眼をむいて凄(すさ)まじく叱(しか)ることも必要です。明王は、実は優しい如来のお使いですから、その忿怒相は、なんとかこの人に立ち直ってもらいたい、しっかり仏道を歩んでもらいたいという心の表れで、内心は慈悲そのものなのです。
 明王の他には、四天王(してんのう)〈持国天(じこくてん)、増長天(ぞうちょうてん)、広目天(こうもくてん)、多聞天(たもんてん)〉や金剛力士(こんごうりきし)〈仁王(におう)〉なども忿怒相をしていますが、いずれも力強く仏法を守護したり、私たちが道を踏みはずさぬようにと願って恐いお顔をしているのです。できれば、私たちも優しい導きを素直に聞けるようでありたいですね。


仏花はどうしてこちら向き?
 
(問)お仏壇もそうですが、お寺にお参りしても、お供えしてあるお花は私たちの方を向いています。仏様にお供えするのに、どうして仏様の方にお花が向いていないのですか。

(答)人に花をさしあげるときは、きれいな方を向けて渡しますが、受け取った人は、ありがとうと言って、花を賞(め)でた後、送り主の方に花を向け直します。そうした方が、みんなと花の美しさをわかちあえるからですね。
 仏様や墓前に花をお供えする時、「仏さま、ご先祖さま、どうぞこのきれいなお花をお受けください」という心を捧(ささ)げるのですから、気持としては花は向こう向きでしょう。しかし、美しいものを供養(くよう)したいと思うこころを捧げるのと同時に、仏さまや墓所を飾るという意味もあります。そうすると、向こう向きのままでは飾るということにはなりません。
 ためしに、一度向こう向きに供えてみてください。なんだか楽屋裏(がくやうら)をのぞいているようで変でしょう。では、こちら向きになおしてみます。やはりこの方がずっときれいで気持ちも落着きます。きれいに飾られると、仏さまの荘厳(そうごん)さもより増すことでしょう。それにお参りする人もきっときれいな気持ちになって、お参りしたという実感がわきます。清々(すがすが)しいこころを仏さまやご先祖さまが受け取ってくださり、その喜ばれたみこころがまたこちらへ伝わって供えた方の喜びになります。行ったり来たりですね。
 供える花は私たちのこころそのままです。お仏壇の花がしおれたままなどということがないように心がけましょう。


拝む
 
 ほこりにまみれた身体(からだ)を洗い流すことはできますが、心のほこりを拭(ぬぐ)いさることはなかなか難しいことです。
 物質的に豊かになれば、それにつれて私たちの欲望も増え、その欲には際限がありません。
 宝石は掘り出された時は一塊(いっかい)の原石ですが、それに磨きをかけると美しい光が出てきます。しかし、ただの石ころをいくら磨いても光は出てきません。
 それと同じように、もし私たちの心の中に光るものがないとしたら、どんなに熱心に修行したとしても、心のほこりは拭いきれないでしょう。
 でも、お釈迦さまは、私たちはみんなもともと仏(ほとけ)になる可能性を備えているとおっしゃっておられます。それを仏性(ぶっしょう)といい、だれでもがもち合わせています。
 言い換(か)えると、私たちのもっている仏性は心のほこりに覆(おお)われているため、その光が出てこないのです。
 ほこりにまみれた身体を洗い流し、温かいお湯にゆっくりと入った後のような清々(すがすが)しい気持ちで仏さまに手を合せる。その時の心はとても清らかだと思います。
 私たちの中にある仏性を磨くこと、それは心のほこりを拭うことです。
 日頃から、こうしたことを心掛け、仏さまに感謝の気持ちを捧(ささ)げ、ご加護(かご)を信じて拝む。こうした地味な行いを積み重ねながら、一歩一歩歩んでゆくということが何よりも大切なことだと思います。


心やわらかく
 
 昔から、おめでたい初夢というと、一富士、二鷹、三なすび、と言われてきました。この解釈には諸説ありますが私流に説明させていただくと、富士山のように高貴で美しく、鷹のように決断と行動力に優れ、煮ても焼いても食えるナスのように柔軟性(じゅうなんせい)をもつこと、ということで、そういう人になれるように願ったのですからおめでたい夢というわけです。
 順番はともかく、三つのうちに地味の代表のようなナスを入れたところに昔の人の賢(かしこ)さが伺(うかが)えます。ナスは煮てよし、焼いてよし、漬け物もよし、と大いに柔軟性があります。しかし主役になれるような派手さはありません。ナスは下座行そのものです。人も下座行の中でこそ素直さや柔軟な心を培(つちか)うことができます。目立たない所で人のお役に立つこと、そして考え方に柔軟性をもつことが大切だと考えられたわけで、これは今の社会においても変わらない大事なことであると思います。柔軟性とは、余裕(よゆう)、融通性(ゆうずうせい)、素直さ、気持ちの切り換えが早い、臨機応変(りんきおうへん)、といったところでしょう。たったひとつのミスに、気持ちの切り替えができないで、そのままズルズル崩れてしまって逆転負けするなど、勝負の世界ではよくあることです。プラス思考という言葉がはやった年がありましたが、これも柔軟と同じような言葉です。元日に、神棚から雑巾が出てきました。暮れのお掃除のときに忘れたのでしょう。正月早々に縁起が悪いと主人が怒っていると、ある人が「雑巾(ぞうきん)を当て字で書けば蔵(くら)と金(かね) あちら福(ふく)々こちら福(ふく)々」と言ったので主人も大いに喜びました。プラス思考とは、考え方に柔軟性をもたせ、明るい方へ、よい方へ考えよ、ということだと思います。
 掃除は普通女性の仕事のように思われていますが、心をきれいにする務めは男性も女性も同じです。であれば、男性にとっても掃除は大事なことで、女の仕事などと決めつけず、気が付いたら自分でもすればよいのです。掃除は、誰もしないから仕方なくとか、いやいやするとか、そういうものではなく、知らず知らずのうちに心を浄めてくれる仕事ですから、自分のために楽しんでしたいと思います。そして心はいつも柔軟に、面子(めんつ)や自尊心(じそんしん)にとらわれずに素直な生き方を心がけてこの一年を過ごしていきたいと思います。


蓮の花
 
 蓮は泥池のなかから清らかな花を咲かせます。煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)という言葉がありますが、煩悩を泥池にたとえ、菩提を花にたとえて、煩悩の中に菩提〈仏〉の要素はあると考えるのです。泥池の中に花を咲かせる養分が含まれているのですから、煩悩を菩提を求める活力とせよということです。
 また、仏教では、私たちのいる世界を娑婆(しゃば)、あるいは堪忍土(かんにんど)といいますが娑婆とは堪え忍ぶという意味ですから、この世は堪え忍ばなければ生きることはできないのです。つまり、思い通りにいかないのがこの世のさだめです。でも、私たちは何とか思い通りにならないものかと、ついつい思ってしまいます。そこに「苦」が生じるのです。その「苦」をいかに超克したらよいかと思い立たれたのが、釈尊が出家された動機だといわれています。
 釈尊は、娑婆といわれるこの世界でも菩提を目指すことができると説かれました。そうした意味からも蓮を尊ぶのです。


檀家とは?
 
 「檀」とはもともとインドの古い言葉〈サンスクリット語〉の「ダーナ」に漢字を当てた「檀那」が由来です。
 では「ダーナ」とは何でしょうか。日本語に訳すと「布施」ということです。つまり「檀家」とは、「布施をする家庭」を意味しています。
 「布施」の「布」とは、自分の都合にとらわれず、普く心を行きわたすことで、「施」とは、施すことを意味します。つまり「布施」とは、仏教徒が仏さまの教えを守り信じて、仏さまに近づこうとするうえで最も大切な行いの一つといえるでしょう。
 一般的に「檀家」といえば、特定のお寺にお墓をもち、ご先祖さまのご供養や葬儀を依頼したり、またそのお寺の護持に協力する人々のことをいいます。
 これは、江戸時代にできた日本独特の制度ですが、今も、お寺と、それを通じて信仰を深めてきた檀家の人々とのつながりは続いています。
 「檀家」という言葉を機縁として、その語源となる「ダーナ〈布施〉」の意味を考え、普くすべての人々に、施しの心や、思いやりの心で接したいものです。


地獄
 
 最近では、子どもをたしなめる時に「地獄に堕ちるよ」なんて言わなくなりました。そんなことを言えば、子どもから「あのね、地獄なんてないんだよ」と逆に切り返されてしまうからでしょうか。なるほど、子どもには、地獄は馴染みの薄いものでしょう。でも、人生経験を積んでこられた皆さんならいかがでしょう。
 私たちは、本物の地獄にはまだ堕ちたことがないけれども、日常的に辛く苦しいことを地獄だと表現します。
 「サラ金地獄」には縁がなくても、ラッシュに揉(も)まれる「通勤地獄」や「嫉妬地獄」程度なら経験済みの方も多いでしょう。そこに嵌(はま)りこんでしまえば「何とか楽にして欲しい。仏さま助けてください」と願うのではないでしょうか。
 仏教では、すべての存在の領域を十に分けて十界といいます。すなわち仏・菩薩・縁覚・声聞・天・人間・阿修羅・畜生・餓鬼・地獄です。この中で最上界は仏の世界で、最下層が地獄です。
 かつては、十界は全く別々に存在すると捉えられていました。しかし、これだと「指定席」になってしまい、その世界から抜け出すのは容易ではありません。法華経は「一つの界は、その中に更に十界を具えている」と説きます。仏の世界にも地獄はあり、地獄にも仏の世界はあるということです。このことを「十界互具」といいます。
 これによって、十界は垣根が取り払われて、固定的な世界ではなくなり、いかなる衆生も成仏できるし、地獄に堕ちている人々でも、仏さまの慈悲によって、救済されることがあるのです。
 当然、私たちは「人間」ですから、自らの中に地獄を持っています。仏も持っています。今ある境遇を「地獄」とするか「仏」とするかは、自分自身にかかっているのです。現在が苦しみの連続である「地獄」であると感ずるなら、自分自身の中にある仏界を信じて、清浄な喜びの世界に転生するように心がけなくてはなりません。
 「あなたの中の仏に会いに」行きましょう。


観音さま
 
 観音さまといえば、聖観音・千手観音・十一面観音・如意輪観音・馬頭観音・不空羂索(ふくうけんじゃく)観音・准胝(じゅんてい)観音の七観音が一般的に有名ですが、それ以外にもマリア観音・慈母(じぼ)観音・悲母(ひぼ)観音・子安(こやす)観音・子育(こそだて)観音など、女性を表わす観音さまもおられます。
 昔から柔和(にゅうわ)な顔で人に接している人のことを
 「まるで観音さまの生まれ変わりのような人だ」
 という例えをすることがあります。
 作家の岡本かの子〈芸術家岡本太郎の母〉は、深く観音さまを信仰していたことで有名ですが、その著書「観音経」の中で、
 「もし仏教から代表美人を選んで、他教と競技させる催しであったら、ミス仏教となって選手に出られるのは、おそらく観音さまでしょう」
 と述べています。
 岡本かの子は、おそらく観音さまは女性ではないかと考えていたのではないでしょうか。
 しかし、その逆に観音の原語は「アヴァローキタスヴァラ」〈世音を観るの意〉といい、サンスクリット語では男性名詞となっています。
 また「観音経」の教えによると、観音さまは出家の姿、在家の姿、天人や龍の姿など男女を問わず三十三のさまざまな姿に身を変え、現世に於いて我々を苦難・厄難から救済して下さると説かれています。
 こうみてくると、観音さまは男性でも女性でもないということがおわかりいただけると思います。


お焼香の意味
 
 お香は、香気ある樹脂(じゅし)や木片から作られています。熱帯の地では生活臭や悪臭を防ぐ目的で使用され、その効果により、清々しい気持ちで生活が送れるようにした古くからの慣習により、供養や修行をする場所を清めるために香が焚かれました。
 お釈迦さまの弟子に富那奇(フナキ)という高僧がいました。富那奇は、兄の羨那(センナ)と共に一念発起し、力を併せて故郷にお堂を建てました。二人は一刻も早くお釈迦さまをお迎えしたく、敬慕する気持ちを込めて香を焚いたところ、その煙はお釈迦さまの下(もと)へ天蓋(きぬがさ)となって届き、二人の供養する心を悟られたお釈迦さまは、すぐさまそのお堂にお出向きになり、説法をされたという言い伝えがあります。
 この言い伝えにより、二人のように心を込めて、念じながら香を焚けば、いつ、どこへでもお釈迦さまはそのお姿をお示しになり、ありがたい法を説かれ、聞く者は安心(あんじん)を得ることが出来るという信仰が生まれたのです。
 私たちは自分以外の様々な生命の恩恵によって、自らの生命(いのち)を保っています。
 また、ご先祖さまがいなければ、私たちは人間として、この世に生を受けることはできなかったのです。
 正に得難い生命をこの世に受けながら、自らの心の運び方によって、良い心、悪い心どちらにも動いていきます。知ってか知らずか、罪を犯してしまうこともあるでしょう。お焼香は、日頃重ねている罪を謙虚に受け止め、その罪をお焼香の香りと共に滅していただき、ご先祖さまや、数々の恩恵を受けた生命や、人々に対する感謝と供養の心をこめてしてみてはいかがでしょうか。
 きっと、心の中に、さわやかな贈り物が届くことでしょう。


布施
 
 布施(ふせ)というとご法事のときにお寺さんへ包んでいくお布施を思い浮かべますが、一般的に金品を施すことを財施(ざいせ)といい、仏法を説いて聞かせるなど、心への施しを法施(ほうせ)といいます。他に、無畏施(むいせ)といって何ものにも怖れることのない力を与える布施があります。たとえば、施無畏者(せむいしゃ)という別名もある観音さまが与えてくださる布施がそれです。
 布施は、自分の都合を後にして他を助けることで、これは仏に近づく手段のひとつですから仏教徒の第一のつとめです。いろんな意味で、相手を助け、豊かな心にする行為は布施と言えますから、たとえば、やさしい眼差(まなざ)しや笑顔を向けること、思いやりのある温かい言葉をかけること、ちょっとした心づかいをすること、順番や席をゆずったりすることなどが立派な布施になります。
 一方、名利(みょうり)の布施という言葉があります。これは自分の欲をからめての布施で、お礼や誉められることを期待したり、どこかに名前が載ることを喜びとしたり、金額を競ったり、好い人だと思われたいとか、そんなことをチラッとでも思ったうえでの布施のことです。こういう布施は不清浄施(ふしょうじょうせ)といわれるくらいで、自分を汚してしまいます。『貧者(ひんじゃ)の一灯(いっとう)』という話は、貧しい少女が自分の髪の毛を売ってお釈迦さまに捧げた小さな小さな灯が大風に耐えて最後まで輝いていたという話です。大金持ちが競って寄進した大きな灯篭(とうろう)の灯はみんな消えてしまったのです。
 布施に自惚(うぬぼ)れや高慢(こうまん)さは禁物です。「こんなことしかできなくてすみません」という謙虚さと「させていただく」という態度があってはじめて布施は功徳(くどく)となるのです。


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