天台宗について

法話集

No.212真(まこと)を振り返る

「正しいことをするのは難しく、よかれは本当によかれでよいのか」

 人間は、何でも終わってみて、結果が出ないと分からないものである。あるいは目の前にことが起こってようやく気づくものである。問題が起こってからでないと、行動を起こさないやっかいな存在である。事前に問題が起こりそうだと予想がついていても、それに対処しない場合が多いのではないだろうか。つまりひとつひとつの行動の判断基準が問題であり、そこに欲が絡んでいて、人はこの欲にまみれたあほなのである。人はちょっと欲張りで、ちょっと見栄っ張りで、ちょっと意地っ張りで怒りっぽいところがある。個人差はあるが、大なり小なりである。

 仏教の教えを集約した短い偈文、「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教(しょあくまくさ、しゅぜんぶぎょう、じじょうごい、ぜしょぶっきょう)」がある。悪いことをするな、良いことをせよ、但し「自分の心を清くして」善悪にあたらねばならない。これがなかなか難しくて誰にでもできると言うものではない。

 友達からこんな相談を受けたことがある。「自分はあの人がなんとか幸せになってほしいから、こうこういろいろやってみたけど、うまくいかなかった」というのである。

 こんな時の状況を仏教ではどんな表現するのか教えてほしいと。友達は「あなたのことを思って言っているんだ」というような恩着せがましい言いぐさはしなかったようだが。

 仏教の実践に、正しい八つの方法があり、その一つに「正見」がある。その場を正しく判断することだと言うが、まさにこの正しいことの判断に欲の関わりがなかったかどうかが問われているような気がする。
 友達の知人への対応に無意識にでも欲が入っていなかっただろうか。
つまり、
・自分のことではないのでまあいいかと思わなかったか?
・本当に相手のことを思うなら自分の選択した行動がそれで正しかったのか?
・相手の立場になって考え思い抜いた事だったのか?
・他の方法やアプローチの仕方はなかったのか?
・自分の自己満足になってしまっていなかったか?
・振り返って見て頭の片隅に少しでも欲はなかったのか?
もし思い当たることがあるのなら、それは人間の欲にまみれたあほさ加減に起因しているように思う。

 しかし、仏教は有り難い。読経時に最初に読む懺悔文(さんげもん)「我昔所造諸悪業 皆由無始貪瞋癡 従身口意之所生 一切我今皆懺悔(がしゃくしょぞうしょあくごう、かいゆむしとんじんち、じゅうしんぐいししょしょう、いっさいがこんかいさんげ)」がある。悪いことをしても、仏様に心から悔い改めれば、仏は許してくれるというのである。たとえ私のようなものであっても、誰でもである。正しいことができなくて失敗しても懺悔する機会を与えてもらっているのである。うれしいかぎりである。


(文・滋賀教区 野栗部 西川 浄海)
掲載日:2022年01月01日

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