天台宗について

法話集

No.215デジタルかアナログか

 調べ物をしている最中に違うことに興味を持ったせいで、中国宋代の史書を読む羽目になってしまった。そうしたら、驚いた。何と漢字が全然読めないのである。読めないと言うとちょっと語弊があるかもしれない。自分が思っている読み方と全く違う読み方がされているし、意味も違っているのだ。うーん、と考えた後に手で辞書を引く回数が多くなった。
 一方、電子辞書は便利だという話しをよく聞くし、新聞を見れば何カ国語も内蔵されている高機能な物の広告も目に付く。自分もちょっと解らない語句があると、すぐにスマホでウィキペディアを調べて納得してしまっている。でも考えてみれば、スマホでその項目を調べて閉じるまでの時間はたぶん数十秒だろう。それで解ったと錯覚しているのである。

 これだけ便利になった時代なのに、いま昭和の物や流行歌が若者の心を捉えているという。カセットデッキやウォークマン、使い捨てカメラやレコードに特撮ヒーローなどなど…。確かに当時としてはそれが最先端だと思ったし、それ以上の進化のことなど考えもしなかった。ウルトラ警備隊が使っていた腕時計型通信機なんて、テレビの中だけの産物だと思っていた。デジタル化の発達によって、それらが現実に実用化されてくると、不思議なことに却って若い人は不便さに回帰していく。これはどうしてなのだろう。

 釈尊は、自ら説いた教えを書き残すということはしなかった。弟子たちが後で集まって、記憶を頼りに書き残した経典を今の我々は読んでいる。現在ではパソコン上でデータとして数多くの経典を読むことができる。けれどパソコン上の経典を見ながら読誦する人は余りいないだろう。やはり紙に印刷されたものを読誦する人が圧倒的に多いはずである。

 『法華経』に説かれる五種法師の最初にある「受持」は、釈尊の教えを自分の心に練り付け、保ち続ける生き様を説いているのだろう。そのきっかけとなるものはデジタルかもしれないし、アナログかもしれない。しかし少なくとも、練り付ける当の心は柔らかくなければならないはずだ。デジタルだ、アナログだなんて言って無意識にその優劣を比べているのは、実は心が固まっている証なのではないか。若者は両者をそれこそ自在に行き来して楽しんでいるではないか。そう書きながら、でもやっぱり辞書は手で引くものだよな、と飽くまで頑なな自分がそこにいるのである。 


(文・信越教区 本覚院 小林 順彦)
掲載日:2022年05月01日

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