法話集

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お札
 
 神社、仏閣をお参りされる時、「家族みんなが平穏無事に送れますように」「おじいちゃん、おばあちゃんが健康で長生きできますように」「商売がうまくいきますように」などと願い、その願意のお札やお守りを求められる方も多いでしょう。神仏は皆さんお一人お一人の願い事をちゃんと聞いてくださって、それに応じてご利益を授けてくださいます。
 願意を聞いてくださって、ご利益を授けてくださった神仏に対して、その後の報告やお礼をされていますでしょうか。「無事に送ることができました。ありがとうございます」「お陰さまで仕事の方も順調にいっております」。
 神仏からのご加護やご利益を頂いたのなら、その報告とお礼を申し上げなくてはならないのです。人にお世話になったらご挨拶に行くように、神仏に対しても必ずお礼参りをすることが大切なのです。自分の都合で願うだけ願って、礼を欠く人間では失格です。「ありがとう」「お陰さまで」その感謝の気持ちをもってお礼参りをしていただきたいと思います。その時に古いお札やお守りをお納めし、新しきお札をお受けして所定の場所へ安置してください。お札やお守りは買うものではありません。授かるものだとご理解下さい。年のかわり目や、神社仏閣の大祭などの折に授けていただく風習がありますが、このお礼参りをされたとき、古きを納め、新しきものを授けていただいたらよいと思います。


お数珠(じゅず)の意味は?
 
 「お数珠」は私たちが仏さまにおまいりする時に使う法具(ほうぐ)と呼ばれるものの一つですが、訛(なま)って「おずず」とも呼ばれますし、「珠数」や「寿珠」と書いたり、「念珠(ねんじゅ)」などとも呼ばれます。
 念珠という名前は、「南無阿弥陀仏」などと仏さまを念じながら、そのお名前をお唱えする時に、何回お唱えしたかという回数を計算するために使うことからきた名前です。実は、数珠という名前自体もそのことをあらわしているのです。常日頃(つねひごろ)から、数珠を繰(く)って、仏を念じていれば、煩悩も消え、仏果を得られるというわけです。
 「木槵子経(もくげんじきょう)」というお経の中には、ハリルという国の王さまが、盗賊や疫病(えきびょう)などの問題で悩み、どうしたら心の平安が得られるでしょうかと、お釈迦さまにお尋(たず)ねした時に、お釈迦さまは木槵子の実百八個で作った数珠を与え、この珠を繰りながら仏の名を唱えなさいとおっしゃったと説かれています。
 王さまが、その通りに実行し、心の平安を得たことはいうまでもありません。
 さて、数珠の形や珠の数は宗派や用途によって違うのですが、珠の数だけは百八個を基準としているのが普通です。多いものでは千八十個のもの、少ないものでは五十四個、三十六個、二十七個、十八個などのものがあります。
 もちろん、まれにはこれ以外のものもありますが、ここにあげたような一般的なものは、すべて、木槵子経の中にある百八個を基準に、十倍したり、何分の一かに略していると思っていただければよいのです。


お塔婆について
 
 ストゥーパのことを漢字で表現して卒塔婆(そとば)〈率塔婆〉といっていますが、ストゥーパとはお釈迦様のお舎利(しゃり)をおまつりする塔のことをいいます。お釈迦様の入滅後、お徳を慕い、教えを心の拠りどころにしている人々が舎利〈釈迦のお骨〉を泰安する塔を建て、お釈迦様がいますがごとく塔を中心に集い、お釈迦様のこの世への出生、成道、涅槃について深く考えました。それによりますと、お釈迦様は真如(しんにょ)〈真理〉の世界からこの迷いの世界に衆生済度(しゅじょうさいど)のために現れた仏様であり、入滅して再び真如の世界に帰還されたお方で、真如そのものであると考えたのです。したがって、真如から来られたという意味で如来ともいいます。真如〈真理〉は普遍的でなければなりません。限定された時代、限られた地域だけの真理だとしたならば、真理とはいえないからです。その時その場所で正しくても、時と場所によって変わるようでは信頼をおくことができません。したがって、真理が時間と空間を超越しているように仏様も永遠なのです。そして、普遍的でありますから、どのような時にも、いかなる所にも行き渡っている存在でなければなりません。宇宙に遍満(へんまん)しているのです。そこで、卒塔婆で宇宙に遍満している姿を表そうとして、形作られたのが五輪塔です。インドでは古くから宇宙を構成しているものは、地・水・火・風・空の五つの要素であるという思想がありました。宇宙全体を示すのに相応(ふさわ)しいので、卒塔婆にその形を取り入れたのです。
 卒塔婆は宇宙に遍満している真理を表し、その真理が仏様なのだということを私たちに示そうとしているのです。ですから、いつでもどこにでも仏様はいらっしゃるばかりでなく、「一切衆生悉有仏性」(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)といって、生きとし生ける者すべてに仏性があるのです。
 皆様が墓参の折にお塔婆を墓地に立てるのは、宇宙の真理に触れ、仏性を開発させて、より良い意義ある人生を歩もうと誓い、仏の加護(かご)を祈るためなのです。そして、その祈りが自分の安楽だけでなく、亡き人の成仏はもとよりですが、生きとし生ける者の安寧(あんねい)を願うことを忘れてはなりません。


散華(さんげ)
 
 寺院ではいろいろな法要を営むとき、仏さまをお迎えする道場を清浄(しょうじょう)にして、諸々の仏さまを讃歎(さんだん)し、供養するために花が撒かれます。
 これを『散華』といいます。
 経典には、仏さまが説法をする際に、天から花が降ってくると説かれており、これは『天人が仏さまを讃歎して花を降らせる』という意味なのです。
 インドでは蓮弁や花を冠状にした生花を用いていました。
 日本ではすでに奈良の正倉院にも納められています。蓮弁(ハスの花弁)や花びらの形を模(かたど)ったもの、文字だけのものや、絵や彩色が施されたものがあります。一般には、木版などで印刷されたものなどが使用されています。
 その他にも、樒(しきみ)の葉が蓮弁に似ているということで、代わりに用いられることもあります。
 最近では、美術品として収集されている方もいらっしゃるようですが、本来は、大事なお客様などを接待する行事などの際、掃除をしたり、花を生けたりして部屋や会場をお飾りするのと同様に、心を込めて仏さまやご先祖様をお迎えし、供養するための大事な作法のひとつなのです。


お正月
 
 お正月といいますと、新しい年を祝うお祭りのようにも思われますが、本来はお盆と同じように、ご先祖様をお迎えし、ご供養する宗教的な意味合いが含まれているのです。
 「月籠(つごも)りの夜、亡き人の来る夜とて、魂祭(たままつ)るわざは、この頃にはなきを、東(あずま)の方には、なほすることにてありしこそ、あわれなりしか」
 これは徒然草(つれづれぐさ)に見られる大晦日(おおみそか)の様子ですが、このように昔はお正月にもご先祖様を迎えてともに一年の幸せを願ったものとされていました。
 初詣、門松、しめ飾りなど昔から慣れ親しんだお正月の風物詩にもそういった意味が込められているのです。だれもが最も日本人らしさを感じることができるのがお正月だといえます。
 ところでよく「一年の計は元旦にあり」といいますが、ご先祖様をお迎えしているよい機会でもあります、仏様に向って今年一年の目標をたててみてはいかがでしょうか。それも澄みきった清らかな心でたてることが大切です。
 「悪い行いはせず、善い行いをして、自らの心を清く保ちなさい」ということが、いろいろなお経に説かれる仏様の教えのもとなのです。自分のことより他人の幸せを願えるようになることが、仏様のみこころに添うことになるのです。そうすればご先祖様も必ず喜んでくださるでしょう。
 さあ、晴れ晴れとした気持ちで新年を迎えましょう。まずは家族そろって菩提寺にお参りします。仏様やご先祖様はいつも変わらぬ清らかな姿で迎えて下さいます。
 「昨年はありがとうございました。今年もどうぞ見守っていて下さい・・・」
 こんなふうに家族そろって感謝し、手をあわせたいものです。


「願以此功徳 普及於一切 我等與衆生 皆共成仏道」(がんにしくどく ふぎゅうおいっさい がとうよしゅじょう かいぐじょうぶつどう)
 
 これは、回向文(えこうもん)と呼ばれ、「願わくは此の功徳を以(も)って、普(あまね)く一切に及ぼし、我等と衆生(しゅじょう)と、皆共(みなとも)に仏道を成(じょう)ぜんことを」というような意味で、皆が一緒に悟りを得られますようにと願うのです。
 このほかお香をたくとき、鐘を撞くとき、さらには食事や沐浴(もくよく)といった日常行為の際にも、それぞれ決まった言葉をお唱えします。それらをお唱えすることで、自分の一つひとつの行いが自分のみならず、他の生きとし生けるものに利益をもたらすものとなるよう願いを込めていくわけです。仏道では発願(ほつがん)といって、願いを起こすことにはじまり、願いを生きることに尽きます。
 世の中には、社会と自分は別もので、社会でなにが起ころうと自分には関係がないと思っている人もいます。しかし、社会とは人と人が接すること、例えば、あなたと私が出会うところからはじまっています。私があなたに辛辣(しんらつ)な言葉をぶつければ、気分を害したあなたは周囲にも「負(ふ)」の感情を振りまくことになるでしょう。そして、あなたから「負」の感情を受け取った人は、さらに次の人へとその影響を与えます。こうして私自身の行為の結果はあっという間に、もしかしたら手紙より早く地球の裏側にまで届くかもしれません。そのとき、そこで起った悲しい出来事が、私には責任ないなどとどうしていうことができるでしょう。
 私たちは皆、大なり小なりこの世界の在り方に関わっています。しかし残念なことに、その行為の結果をありのままに知ることはできません。
 だからこそ願いを起こすのです。誰ひとり悲しみの涙に暮れることのない平和な世界に生きられるようにと。


心を磨く
 
 ある寺院で昔の修行の様子を聞いたことがあります。修行僧達は、毎年ある時期になると、清掃用具を一式持たされ、お寺から町に出ます。無作為に一軒ずつ家々の玄関を叩き、「○○寺の修行僧ですが、お宅様のトイレ清掃をさせて下さい」と言って町内を回るそうです。もちろん町内で、その時期にお寺の修行僧達が、トイレ清掃の修行に来ることは風物詩となっていました。
 しかし、その趣旨にご賛同いただき、ご協力いただける家は少なかったようです。「数少ない受け入れ先の家は一体どんな方なのだろう?」という疑問が湧きました。聞いてみると、受け入れてくださる家々のトイレは、修行僧が清掃する余地のないほど清掃が行き届いているそうです。もちろん、他の部屋、庭なども同様に清掃が行き届いているとのことです。もし、汚れているトイレであれば、当然、他人に見られることが恥ずかしく、修行僧を受け入れることはできないでしょう。
 また、その寺院の来客用トイレの清掃は、古参の修行僧が行うことが慣例でした。来客に対する配慮は経験豊かな者の役どころ、といった考えと、若い修行僧達を指導する立場の者に慢心が生じないように、との配慮ということでした。
 トイレ清掃ひとつ取ってみても、日常生活を送る上での心掛け、配慮や精神面での精進など、いろいろ考えさせられることが多いものです。
 これらの話は、私が小僧のときに大先輩の住職から伺いました。私がお寺の清掃を指導いただく際に、「どの程度まで綺麗にしたらよろしいのでしょうか?」と尋ねた愚問に対する有難い話でした。そして、その住職が最後に話された言葉が今も思い出されます。「自分の心を磨くようにお掃除をすればよろしい。そして、それを初心として忘れないように」


和顔愛語(わげんあいご)
 
和顔愛語とは、「大無量寿経」にある言葉で、おだやかな笑顔と思いやりのある話し方で人に接することなのです。無財(むざい)の七施(ななせ)〔財がなくてもできる七通りの布施〕の中の和顔悦色施(わげんえつしきせ)と言辞施(ごんじせ)に通じる内容ですから、布施行のひとつでもあります。
 例えば、もし混んでいる電車の中で足を踏まれたとしましょう。その時、あなたは怒ってはいけません。にこやかな顔で、
 「あなたの靴が私の足の上に乗っているのですが」
 と、穏(おだ)やかに言わねばなりません。何しろ布施の修行をしているのですから。
 アランの「幸福論」に
 「あなたがレストランに入る。隣の客に敵意ある視線を投げ付け、さらに、メニューをジロッと見て、ボーイをにらむ。それですべては終わりだ。不機嫌がひとりの顔から他のひとつの顔に移る。すべてがあなたの周囲で衝突(しょうとつ)する。恐らくコップでも割れることだろう。そして、その晩、ボーイは細君を殴りでもするだろう」という話があります。
 あなたの不機嫌な行動や言葉は、あなたひとりに止まらず、次から次へと伝わっていくと言うことでしょう。それからまた、他人の不機嫌も自分に伝わり、楽しかるべき気分が損なわれることもあるのです。
 さて、不機嫌が他へ伝わるものならば、その反対の上機嫌も同じく他へ伝わるはずなのです。だとしたならば、不機嫌を他にばらまくより、気分よく人に接した方がいいに決まっています。それは、誰もが望むことですが、四六時中(しろくじちゅう)気分よくしようとしてもなかなかそうはさせてくれません。他人との間では、自分の思い通りにならなかったり、嫌な仕打ちを受けたりもします。そんな時、にこやかに思いやりある言葉で接することなどできませんし、もし、そのように振る舞えたとしても、相手に媚(こ)び諂(へつら)っているようにしか思われないでしょう。
 では、どうしたらよいのでしょうか。
 怒りには怒りをもって応酬(おうしゅう)しますか。それでは、ギスギスした心になってしまいます。和顔愛語は、先に申しましたように仏道修行なのです。布施行なのです。他人の思惑(おもわく)などどうでもよいのです。和顔愛語を行って、他人によく思われたいと思ったならば、それは布施ではありません。あくまでも自分自身の問題であり、仏の境地に近付く第一歩なのです。


「回向」について
 
 「回向」は「廻向」とも書きます。文字通り、自分が積んだ善根の功徳を、自分のためではなく、他の人のために回(まわ)して向けることを言います。
 わかりやすく言えば、ご法事に参列した人々が、それぞれ自分が積んできた善根の功徳の一部を、今日のご法事のために振り向けて下さいと念じて、お参りすることです。もちろん、ご法事を営むこと自体に大きな功徳が在るわけで、それが故人に回向されるのは当然のことですが、同時に参列する人々にも、是非そうした気持ちでおまいりしていただきたいと思います。
 ただ、その場合、自分の積んだ功徳を故人に分けてやるというような、驕(おご)った気持ちは捨てなければなりません。
 あくまでも、仏さまのお力をお頼(たの)みして、善根の功徳を故人にお供(そな)えさせていただくという謙虚(けんきょ)な気持ちが大切なのです。
 お供えといえば、よく「ご供養」という言葉をお聞きになると思います。
 これも、回向と同じように、品物や善根の功徳をお供えして、故人の極楽往生の糧(かて)を養うことと言ったらいいでしょう。
 さらにまた、「追善供養」という言葉もあります。普通は故人を弔(とむら)うためのご法事の意味に使われていますが、実は追善供養というのは、文字通り、後ろから追いかけて故人のために善い行いをして、それを供養することなのです。
 ご法事に参列される時には、是非この気持ちでおまいりしていただきたいのです。


「華(はな)は愛惜(あいじゃく)に散り、草は棄嫌(きげん)に生(お)う」
 
 という表題の言葉は、花が咲くと、人は喜び、惜(お)しまれつつ散るのに、雑草は嫌がれつつ生えては捨てられる。花も草も共に大自然の因縁の働きによって生じて来たのです。花は人に喜んでもらいたいために咲いたわけではなく、雑草は人に嫌がらせをするために生えたのではありません。なのに、人間の都合で勝手に良いの悪いのと差別することを言う格言です。
 私たちは、幾多の因縁のお陰(かげ)によって歩んでいる今日ですが、生老病死(しょうろうびょうし)を免(まぬが)れる方法はありません。百パーセントの確率です。なのに、老いることを厭(いと)い、若くありたいと若さに執着(しゅうじゃく)します。若さを保つための努力は惜しみません。こんな川柳(せんりゅう)があります。
 母親のテニス姿に目を背け
 化粧品年々減りが早くなり
 若さへの憧れ、そこに絶大な価値を置こうものなら、老後は意味のないものになってしまいます。老いの中にも病の中にも優雅な人生はあるのですから、それを見出すことの方が肝要(かんよう)です。
 良寛さんは友人に宛てた手紙の中で、
「災難に遭時節(あうじせつ)には災難が遭がよく候(そうろう)、死ぬる時節には死ぬるがよく候。是(これ)ハこれ災難をのがれるる妙法(みょうほう)にて候」
と、言っていますが、老いたら老いたところで、病気になったら病気になったところで、それは因縁によって与えられたものとしてしっかり受け止め、その中に真実の生き方を探すことなのです。


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