天台宗について

法話集

No.194真の平等とは

「本学はキリスト教の平等の精神に基づき、すべての受験生が同じ条件で入学試験を受けることとします」

 一昔前、聴覚に障害がある学生が、ある大学を受験する際に英語のヒアリングテストを別の形で受けられないかと要望したところ、大学側からこんな言葉を返され、失望したその学生は、結局、受験しませんでした―。

 この話は、今から10年ほど前、私が民生委員として参加した、「障害者差別解消法」に関する研修会で聞いたものです。2006年に国連で「障害者権利条約」が採択され、日本でも障害者への差別の解消のために様々な法整備が進められていた時期でした。その後、2016年に「障害者差別解消法」が施行されましたが、その法律の中では、各種事業者や行政機関などが障害を理由とする不当な差別的取り扱いを禁止する一方、健常者と同じ権利が受けられるよう「合理的な配慮」が求められるようになりました。「合理的配慮」とは難しい言葉ですが、冒頭の話に沿って言えば、大学は聴覚に障害がある受験生に対し、障害の度合いに合わせて別室や特別な機器で大きな音量でのヒアリングの試験や、読話による試験などの配慮をする努力義務が求められるというものです。わかりやすく言えば、レースにおいてスタートラインを個々の障害によってそれぞれにふさわしいところに調整するのが平等であり、皆がスタートラインをそろえるのは平等ではないということです。

 そのような人権意識に基づく「平等」という概念は、なんとなく近代に生まれたもののように感じますが、驚くべきことに伝教大師は既に1200年も前にこんな言葉を遺されています。

 「およそ差別(しゃべつ)なきの平等は仏法に順ぜず。悪平等のゆえに。また、平等なきの差別も仏法に順ぜず。悪差別のゆえなり。」(『法華去惑』より)

 ここでいう「差別(しゃべつ)」とは現代の人権用語の差別ではなく、「区別」や「違い」と言った意味ですが、簡単に言うと、「様々な違いを認めない平等は仏の教えではなく、間違った平等である。また、平等を認めないで差異を強調するのも仏の教えではない。悪い差別である。」

 現代において、私たちは平等というものは無条件に正しいものだと思っています。しかし、よく考えない平等は、かえって誰かを差別しているかもしれません。すべての人が、皆それぞれ様々な違いがあることを認め、それぞれの幸せを求められるようにすることが真の平等と言えるでしょう。


(文・神奈川教区 泉福寺 浮岳 亮仁)
掲載日:2020年06月01日

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