天台宗について

法話集

いつもありがとう

 お葬式のことからお話ししたいと思います。

 かつてはお葬式は近隣の共同作業でした。どなたかが亡くなると、組と言いますか、常会と言いますか、隣組と言いますか末端の単位組織が集まって、当家の施主からきちんとお葬式の依頼を受ける。組からは正式に寺使いが出てお葬儀のお願いに上がります。
 私の地区では、田舎のこととてまだ半分くらいは組のお使い(二人と決まっています)が見えられます。もちろん第一報はセレモニーホールから日程の電話問い合わせが来て概要は分かっています。お使いの方とは一寸した打ち合わせ、それから顔見知り同士、亡くなった方についてのダンベ話になります。あの人はああだったよな、こんなだったよな、実はよう、・・・そんなことも在ったのかあ、まあそんなに長い時間ではないのですが、その人となりが浮かび上がってきたりします。

 人間って当たり前ですけど一面的な存在ではないのですね。いろんな人にいろんな顔を見せている。有名なたとえ話ですけど、目の不自由な方々6人が象のいろんな箇所を触って「象とはこういうもんだ」と主張し合う話(群盲象を撫でる)。たった一人の人についても似たようなものだと思います。
 いろんな人といろんなお付き合いをする、そこで初めて人生というものが出来上がってくるのではないでしょうか。人間は一人で生きているのではない。親があっての子供、子供が有っての親、生徒がいての先生、先生がいての生徒、部下が居ての上司、上司が居ての部下、そういう関係性の中で命はある、お釈迦様の言われた「諸法無我」ってそういうことかなと理解しています。

 話は戻りますけど、生きている間にお付き合いのあったいろんな方ときちんとお別れをする、それがお葬式だと思っています(「お別れの会」でもいいですけど)。最近あまり聞かなくなりましたけど、報せをいただいて弔問にお伺いしたとき、「長いことお世話になりました」と施主から挨拶を受けていたものです。あれは親がお世話になりましたという感謝の言葉ではない。亡くなった当人はもう言えないから、当人に替わって述べている感謝の言葉だと、私は思っています。施主って故人の代理だったのです。豊穣な人生の最後の挨拶、それはきちんとしてあげた方がいいと私は思っています。


(文・茨城教区布教師会 本田 純道)
掲載日:2018年12月01日

その他のおすすめ法話

ページの先頭へ戻る