天台宗について

法話集

釈尊の教えでないもの2

 「善知識」(ぜんちしき)という仏教の言葉があります。幸せになるために役立つ知識と思われるかもしれませんが、原語は、Kalyāṇamitraで、Kalyāṇa(カルヤーナ)は、美しい、善い、優れたという意味で、mitra(ミトラ)は、友達、仲間という意味です。ですから、善知識は、善き友、善き仲間という意味です。私達は友に支えられ、友の成功や失敗から多くのものを学んで成長して行くものです。今回は、お釈迦様にとって善知識であったかもしれない思想家達(六師外道)の中からアジタ・ケーサカンバラとサンジャヤ・ベーラッティプッタをご紹介します。

 アジタ・ケーサカンバラは、世界は元素から構成され、人間も元素からなり、死ぬと元素に戻るだけで、死後には何も残らない。そこには、霊魂や来世、善業・悪業の果報も存在しないので、祭祀や布施など無意味であると考えました。そして、地水火風の4つの元素のみが実在であり、それらの活動領域として虚空があると考えました。元素については、仏教でも同じように考えておりました。今でも時折使われます「四大不調」とは、四大(地水火風)の調和が崩れて病気になることをいい、「四大空に帰す」とは、死ぬことを意味します。しかし、仏教では、善い行いや悪い行いの果報が有ると考え、それに基づいて輪廻を考えるところが異なります。

 サンジャヤ・ベーラッティプッタは、お釈迦様とほぼ同時代の人で、仏教教団を支えた二大弟子の舎利弗・目連は、彼の弟子であったといわれています。彼は、形而上学的問題に関する判断中止の思想を明らかにしました。例えば、「死後の世界があるかどうか」の問いに対して、「私は、有ると考えたなら有ると答えるであろう。しかし、そうだとは考えない。そうらしいとも、そうでないとも、そうでないのではないとも、・・・とも考えない」と答えたといいます。彼のこうした考えは、後に、ことばと対象・認識に関する深く広大な思想に係わっていきます。お釈迦様は、形而上学的問題には、無言をもって答えられました。これを「無記」といいます。

 お釈迦様は、当時の思想家達を「彼らは互いに論争をし、反対論者を愚者だという。彼らは、己の見解への執着によって汚されている」と評されました。意見を十分聞いて、幸せになるために役立つかどうかを考えて、諸々の論争を超越したのがお釈迦様の教えであるといわれています。


(文・北総教区 長福寺 鈴木 晃信)
掲載日:2016年03月01日

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