天台宗について

法話集

No.83金輪際(こんりんざい)

 「もう金輪際ごめんだ」や「金輪際承知しない」などと、強い否定を伴った時に使われる「金輪際」という言葉は、元々は仏教の世界観からきています。
 仏教宇宙観の体系を示す書物の1つにインド5世紀の世親(せしん・ヴァスバンドゥ)が表した「阿毘達磨倶舎論 (あびだつまくしゃろん)」があります。この中の第3章「世品(せほん)」に須弥山(しゅみせん)説が述べられています。
 この説によると、「宇宙」とは虚空(空中)に「風輪」という丸い筒状の層が浮かんでいて、その上に「水輪」の筒、またその上に同じ太さの「金輪」という筒が乗っている。そして「金輪」の上は海で満たされており、その中心に7つの山脈を伴う須弥山がそびえ立ち、須弥山の東西南北には島(洲)が浮かんでいて、南の方角にある瞻部洲(せんぶしゅう)が我々の住む島と考えます。
 そして「金輪」の最も下、「水輪」との境目を金輪際といいます。この境目は地上の島に住むわれわれ人間からすれば、はるかな底であることから、「物事の極限」を意味するようになりました。
 江戸時代の『東海道中膝栗毛』には「聞きかけたことは金輪際聞いてしまはねば気がすまぬ」とあり、もともとは打ち消しを伴わない表現がされていました。それが「徹底的に」「どうしても」などの意味から、現在では打ち消しの語を伴って、「決して」「断じて」の意味として用いられるようになりました。
掲載日:2011年01月24日

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