天台宗について

法話集

行(ぎょう)とは両(ふた)つの心を同じところにおいて歩む姿なり

 私たちの気持ちにはおいしいものをお腹いっぱい食べたい気持ちと、体に負担にならない少食菜食をする両極の気持ちが食事の時に顔を出します。朝には「まだ布団に居て起きたくない」と「早起きするとすっきり気持ちがよい」とが葛藤します。服装では「こんな柄や形や素材は気に入らない」と「寒さや体を守ってくれる衣類があればいい」とがお店の前で心を揺らせます。他人は汗を流し智恵を絞って力の限り取り組んでいても、私は楽に過ごせるほうがいいのだと言い切ってしまう心があります。人と接する時は優しく配慮の行き届いた対応をしたい心と、どうみられたって構わないから我が勝手に過ごしたいとも思ってしまう。
 その両(ふた)つの心は片方が良くて、一方はなくさないといけないと自分に硬い枠組みをはめてしまうとバランスを欠いてしまい、「何故こんなことをしないといけないのか」と問い、長続きしないものになってしまうのかもしれません。また、自己中心のまま生きていると周りの存在が小さく意味のないものに見えてしまいます。
 人は用事が有って忙しい時にはのんびり過ごしたいと思う。暇があるときは退屈で仕方ない。人はないものを意識した時、ねだって余計に欲しくなる裏腹な心に襲われます。人のお世話をする時も「私が一方的に犠牲になっても構わない」と考えたり、「お世話してもらうばかりで何も返せるものがなく迷惑だけが残っていく」と考えると、肩をすぼめて寂しく生きていかざるを得ないのではないでしょうか。
 しかしあなたに対しみんなが求める姿なのですか? 自分が見えているだけのものしか与えていないのではなく、見えていない多くのものを人に与えながら生きているのです。私たちの心には人が見ていないから悪いことしても構わない、知らないからうそをついても構わない、人が評価しないから力を抜いてやればよい、などの心が顔を出す時もあります。でも一番傷つき、許しがたいのは自分なのです。
 そのようなあれこれの心に耐えながら、前進するところに行があるのです。両つの心を越えて生きようとするのが行なのです。今持っている価値観より、もう一段高い価値観へと近づこうと力を尽くすのは喜びにつながります。
 伝教大師は「発し難くして、忘れ易きは善の心なり」と説かれ、善の心を実践しようとする時「忘己利他」の心を持てと説かれています。人と共に取り組む共同性が大切になります。人と共に目的に向かう、人と共に喜び合う、人と共に難しさを工夫する、人と共に力を尽くす。これらに叶うのが善の心です。善い行いが出来た後味は、すがすがしく我が心を満たしてくれるでしょう。此れを重ねながら生きていくのが生活にある行(ぎょう)の姿ではないでしょうか。

(文・上阪法山)
掲載日:2013年12月19日

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