天台宗について

法話集

No.175供養の心

 人は実に多くのものを遺してこの世を去っていきます。故人が遺したもので形あるものは、皆で平等に円満に分けていただければよろしいのですが、今日は特に「形のないもの」についてお話させていただきます。

 私の母も、もう20数年前に他界し、生前中は色々と口うるさい母親でしたが、私もこの年になりますと母親が言っていたことが身に沁みて感じることが多々あります。
 その母親の言葉の中で特に今の自分の毎日の生活の中で生かされている「遺言」がありますのでご紹介させていただきます。
 私が子供の時、自分の部屋を散らかしておりますと、母親は「掃除をしなさい」と注意するのですが、私も子供でしたから、「どうせ掃除をしてもまた汚れるから今度しておくわ」と、耳を傾けようとしません。
 すると母親は「そうか、わかった。それならお母さんもこれからお前が食べたご飯の茶碗を洗わんとくわ。どうせ洗ってもまた汚れるんやから、お前はその汚い茶碗で食べなさい」と言うのです。
 特に学があった母親ではありませんが、この言葉は全く理路整然としていて反論の余地がありません。完全に降参です。そしてこの母の「遺言」が今の自分の糧となっているのです。私のお寺の境内はとても広く、たまに掃除をするのがいやになります。「どうせ掃除したって・・・」そんな時、私はこの母の「遺言」を自分に言い聞かせるのです。

 「遺言」と申しますと、すぐに「財産の分割」を連想し、時には争いとなってしまう場合もありますが、故人は形がなくてもすばらしいものを沢山遺していくのです。それはその人その人によって実に様々です。すばらしい言葉、ユニークなものの考え方、何かをする方法など、皆さん思い当たることが沢山あるでしょう。
 私たちはすぐに形あるものばかりに心を奪われますが、こうした形のない「遺物」を受け継いでいくこともまた、故人の何よりの供養につながっていくものだと思います。
合掌



(文・北陸教区 中野 純賢)
掲載日:2018年10月01日

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