天台宗について

法話集

No.116愛を慈しみに  

  
 愛はあまたの命を生み育む心ですが、愛によって苦しむこともあります。
 生まれ育ってこられたのは、初めに親の見返りを求めない心があったからです。
 この心は無償の愛と言われ苦しみが生じません。仏教ではこの心を愛とは言わず慈しみと言います。慈しみはパーリー語でMettaと表される友情のような心として説かれました。
 赤子がスクスク育つ、慈しみの心を全ての存在にまでは向けられません。しかしそうすることを教えているのが仏教なのです。
 殆どのことは見返りなしには生活も仕事もできません。このため思うようにならない苦しみを生じます。仏教では苦の原因ともなる愛を、渇愛や愛着など、具体的に定義し問題を説きました。愛の苦を生じないためには、愛と慈しみを区別し、慈しみを併せ持ったり、愛から慈しみに至る必要があります。
 子供は成長すると、親の意に沿わなくなります。このとき育ててやった気持ちが働くと、子供は友情から打算に切り替わったに等しいショックを受けてしまいます。
 親が、「どこにも恩を返せていない分、僅かながら子供に返せた。」と気づけば、子供は親に反抗する気持ちにはなりません。
 日常において大概のことはギブ・アンド・テイクで成り立ち取引と同等ですから、節度を守り誠実に行動しなければなりません。
 ギブギブには、赤子が母親に感じるような安堵感があり、受ける者も、与える者も生き生きとします。ギブギブが身についた人はすこぶる元気で、ストレスが溜まりません。
 親の死にあたり、これまで受けた慈しみを観じ止め、「何処にあれど幸あらんことを」と願い告別できたら慈悲心となり、悲しみは不思議な程残りません。誰との死別でもこれは同様です。このように執着する心を離れて行くと平等の心に至ります。伝教大師さまは、「山家学生式」に、「…己れを忘れ他を利するは、慈しみの極みなり。」と、分かりやすく慈しみのあり方を説かれました。
 仏教では私という実態はなく、炎のように変化する現象に過ぎないありさまを教えていて、通常感覚は見かけにしかなりません。
 無我である実感を中々持てませんが、己を一時的にせよ忘れられたら、瞬時や継続する救助活動など、一切のしがらみから解放され我が消え去るのは確かです。無我を感じると、慈しみのパワーを遺憾なく発揮します。

(文・千島秀元)
掲載日:2013年11月01日

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