天台宗について

法話集

No.65身・口・意の三業を浄めよ

 道路を歩いていると、突然、犬が吠えて襲いかかってきた。とっさに道端に落ちていた石を拾って投げ付けました。
 さて、ここで問題です。
 投げ付けた石と、拾う前に道端にあった石は同じか、同じでないか。
 これは『生物から見た世界』という本に出ていた問題です。
 道に落ちていた石を拾って投げたのですから、同じ石に決まっています。道にあろうが、手の中にあろうが、石に変わりはありません。成分も形も重さも何ら変わっていないはずです。ところが石は大いに変化しているというのです。
 では、どこがそんなに変わったのでしょう。それは、石という存在の意味がすっかり変わってしまったのです。つまり、路傍(ろぼう)の石が犬を追い払うための武器になったのです。科学的には同一であるのに、存在の意味が変化したのです。その変化の主な原因は石そのものにあるのではなく、その石を取ろうとした人間の側にあります。人の心が、人の行いが、科学的には同一であった石に変化を与えたといったらよいでしょうか。
 このような人間の行いを身・口・意の三業(ごう)といいます。身体的な行いと、ことばで表す行いと心に思う行いのことです。そして、この三つの行いを浄(きよ)めよと仏教は教えています。
 浄めるとはどういうことでしょうか。その三業の行動が自己中心のわがままになっていないか、こだわりや執着がないか、欲望はコントロールができているか、他人を傷付けていないか、常に反省することではないでしょうか。
 そしてこの三業はそれぞれの行いだけでなく、その行いによってもたらされる結果をも含んでいます。よきにつけ、あしきにつけ、私たちのこの三つの行いは、結果として自分を含めたさまざまな存在の意味づけをするのです。
掲載日:2009年07月28日

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