法話集

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[とんがらし]のお父さんお母さん
 
 4歳の長男が畑作業を手伝ってくれた。日頃より「僕も手伝ってあげる」との心やさしい?長男の手伝いは、あとで周りの片付けのおまけが付くことになるのだが、この時は私の方から子供の背丈程に伸びた唐辛子(とうがらし)の茎に添え木を施す為の手伝いを要請。一本一本しなだれてヘナヘナだった苗木が見事にシャンとして整っていく。
 その時の親子の会話・・・「ひろ君もちっちゃい時弱々(よわよわ)だったけど、今はこれみたくシャンとしてきたなあ。もう、お兄ちゃんやもんな!」。このひと言で気を良くしてくれたか「よいしょ、よいしょ、とんがらしガンバレ」と苗への声援に続いて思わぬ問いが返ってきた。「お父さん僕はもう抱っこや手を引っぱって貰ったりしないけど、この野菜は大きくなる程ささえがいるんやね」。添え木された苗に対する些かの誇らしさと素直な疑問に、私は「ひろ君にはお爺ちゃんお婆ちゃん、お父さんお母さん、それと二人のお姉ちゃんがいるだろう。手を継がなくてもみーんな僕のことささえてくれてるんよ!」と返事。「ふーんそうか。そしたらこのとんがらし、お父さんやお母さんいないから可哀そうやな。僕がお父さんになったげる」と、いやはや、やさしくも頼もしく返ってきた言葉に、十年後もそうあれよ、とつくづく感じたのである。


ほとけさまの(心の)サイン ―お釈迦さま― 
 
 先月に続いて、「ほとけさまのサイン」のお話です。お釈迦(しゃか)さまは 釈迦如来(にょらい)とも呼ばれます。実はこの○○如来と名のつく仏さまは、 すでに完全なお悟(さと)りを開かれた方なのです。ですから、如来さまは一切の物事(ものごと)に対するとらわれの心がありませんので、そのお姿も装飾品(そうしょくひん)などは持たず、簡単な衣(ころも)を一枚身につけておられるだけで、あとはご自分のお心を伝えるために必要なもの以外は一切何もお持ちにならないのです。
 そこで、お釈迦さまですが、普通は絵のように、左右の手の指をひろげられ、右手を胸の辺(あた)りにあげ、左手を腰の辺りにたらしていらっしゃい   ます。
 この右手の形(印相〔いんそう〕といいます)を「施無畏(せむい)の印(いん)」といい、わかりやすく言えば、「何もこわがることはありませんよ、心配しないでね」とおっしゃっておられるのです。そして、たらした左手は「与願(よがん)の印(いん)」といって、「話してごらん、願いごとは聞いてあげますよ」ということをサインであらわしておられるのです。
 なお、お釈迦さまにはお生まれになった時の誕生仏(たんじょうぶつ)から、お亡くなりになられた時の涅槃像(ねはんぞう)まで、実にさまざまなお姿が あります。
 ところで、この施無畏と与願の印の大切なことは、これらの印が、自分だけが救われればそれでいいという狭(せま)い考え方ではなく、もっと幅(はば)広く、悩(なや)んでいる人々を救ってあげたいという願いをあらわしているのです。言いかえれば、自分の利益(自利〔じり〕)よりも他人のことを中心にする考え方(利他〔りた〕)で、そこには仏教の説く慈悲(じひ)の心があります。
 かつて、伝教大師(でんぎょうだいし)・最澄上人(さいちょうしょうにん)が「己(おのれ)を忘れて他を利(り)するは、慈悲の極(きわ)みである」とおっしゃられたのは、正にこのことだったわけです。


ほとけさまの(心の)サイン
 
 心をサインで・・・皆さん、いつも拝(おが)んでおられる仏さま(仏像や画像)が、サインを出しておられるのをごぞんじですか?
 「そんなこと知らないよ!」―なんて言わないで下さい。
 仏さまはみんなそれぞれにサインを出して、皆さんを迎えて下さっているのです。最近では、ともすると、仏さまを芸術作品として見るような風潮さえありますが、仏さまの芸術的な価値は、本来第二、第三の問題なのです。仏さまは、もともと私たちが、その前で手を合せ、祈りを捧(ささ)げる対象なのですから・・・。
 そして、仏さまは、そうした私たちの祈りを「たしかに聞いてあげますよ」とサインで伝えて(メッセージ)下さっているのです。
 私たちがどんなに祈っても、肝心(かんじん)の仏さまが知らんぷりをしておられたのでは困ってしまいますよね。
 では、実際に仏さまからどんな風にサイン(メッセージ)が出されているのでしょうか?
 実は、仏さまは、お手の形(かたち)や持ち物など、いろいろな方法で私たちにサインを送っておられるのです。言いかえれば、仏さまのお心が、こうした形であらわされているといったらいいでしょう。
 ですから、私たちがおまいりする時には、まずこの仏さまのサインをしっかりと受けとめてから、心静かに祈るというのが、本当のおまいりの仕方(しかた)というわけです。仏さまのお姿、すなわち形には、そのお心があるのだということをぜひ覚えておいていただきたいのです。


『精進(しょうじん)』
 
 「精進が足りないから、こうなるのだ」と、感心できない結果の時などに使われることがある精進とは?…
 仏道修行に六波羅蜜(ろくはらみつ)という大事な実践徳目(とくもく)(心がけ)があります。波羅蜜とは、悟りに至るという意味で、それは次の六つに示された内容です。
  布施(ふせ)波羅蜜(他の助けとなるいろいろな施し)
  持戒(じかい)波羅蜜(してはならないという戒を保つ)
  忍辱(にんにく)波羅蜜(苦しいことを耐え忍ぶ)
  禅定(ぜんじょう)波羅蜜(心を安定させ、物事に集中する)
  精進(しょうじん)波羅蜜(努め励む)
  智慧(ちえ)波羅蜜(物事を正しくみる)
 精進波羅蜜は、他の五つの徳目を含め大事な事を日々怠(おこた)らずに務めることで、そこから仕事や習い事を毎日コツコツと努力することを精進すると言うようになりました。
 「継続は力なり」といいます。どんなことでも続けてこそ身につき、力ともなるので、一日怠れば、それまでの何十日分の努力が水の泡となって消えてしまうことも多いのです。
 ですから、六波羅蜜の実践も、まず「精進」があってこそ他の徳目の意味もあるのだといえます。「昔は善いこともたくさんしたが今は休んでいる」というのでは意味がないのです。精進は一生涯です。
 さて、精進も方法や方向を間違えると精進とは言えなくなります。
 例えば、大変な技術をもったスリや、オレオレ事件のように巧みな話術で大金をだまし取る者などもいますが、こういう技術習得にいくら精出してもそれは精進とは言えません。あくまでも正しい方向への精進であることが大切で、これを正精進(しょうしょうじん)といいます。
 ですから、仏道修行も稽古事(けいこごと)も社会生活もよい師匠や先輩に学ぶことが大事ですね。深い智慧をもって正しい方向と方法を常に示してもらえますから、道を踏みはずすことはないと思います。
 
 


お掃除
 
 今年も明けて早、ひと月がたちました。暮れの大掃除(おおそうじ)で清々しくしたところも、すでにホコリが溜まり始めたでしょうか。今から年末の大掃除に備えてというわけではありませんが、今回は掃除についてです。
 さて掃除は喜んでというより、仕方なくする程度に軽々しく考えられがちですが、実は大変大事な事なのです。たとえば日本には昔から剣道、弓道、柔道、茶道、華道など、何々道といわれる武術や稽古事(けいこごと)がたくさんありますが、それらの稽古の前とあとには必ず稽古場の清掃をします。それは、剣道について言えば、剣の技術そのものの習得と同時に、剣を手段とした心を磨くための道であるのですから、心をこめて道場の清掃をすることもまた剣道の中の大事な修行になるのです。剣の奥義(おうぎ)を極めることは即ち、人間の奥義を極めることで、そのために道場の清掃はきわめて大切な修行なのです。
 また、仏道に励む僧侶の世界でも日頃の修行として、これも昔から、
一、作務(さむ) 二、勤行(ごんぎょう) 三、学門(がくもん)
と言われてきました。まず、一番が作務です。作務とは、掃除や片付け、庭の草取りや、昔ですと薪(たきぎ)を割ったり風呂をたいたりとか、要するに体に汗して働く作業です。その中でも作務の代表は掃除です。
 そして、二番目に勤行。これはお経を読んだり、坐禅をしたりのお勤(つと)めです。そして最後にお経やその他の勉強です。今の子供なら、「一に勉強二に勉強、掃除なんかしなくてもいいから勉強していなさい」と言われそうですが、お寺の小僧さんは掃除が一番、勉強は三番目です。仏教は人格を完成させるための教えで、その手段のひとつとして作務の大切さを教えるのです。お経の勉強や、お経を読んだり坐禅したりの勤めももちろん大切なのですが、「なんだそんなこと」と、おろそかにされがちな掃除などが、実は心を磨くのに大変重要なのだということを教えるために、作務は僧侶の勤めの第一番になっているのです。
 お釈迦さまのお弟子に、ある兄弟がいました。兄のマハーパンタカはお経の勉強もよくできましたが、弟のチューダパンタカはお経の短い文句をも、なかなかひとつ覚えられません。そこでお釈迦さまはチューダに「おまえはお経の勉強はいいから掃除をやりなさい。目につくところをみんなきれいにしなさい」と言われ、チューダに掃除用具と「塵(ちり)を払(はら)い、垢(あか)を除(のぞ)く」という短い言葉を与えられました。そんな短い言葉ひとつをすぐ忘れるほどのチューダですが、チューダはお釈迦さまの言われるとおりに、その日から箒(ほうき)と塵取(ちりと)りを持って「塵を払い、垢を除く。ちりをはらい、あかをのぞく」と、その言葉をひとつ覚えに、そこら中を掃除して回りました。人が汚したものでも何でも、汚れを待っているかのようにきれいにして回ったのです。そうしている内にすっかり心の垢がとれ、頭の良い兄を追い越して誰からも慕われるやさしい人となったということです。


元三大師さま
 
 正月、一月三日のご命日にちなんで、「元三大師(がんざんだいし)さま」と親しんでお呼びしていますが、お名前は良源(りょうげん)といい、また、のちに一条天皇より「慈恵」の諡号(しごう)を賜ったので慈恵大師(じえだいし)ともお呼びしています。天台宗では宗祖の伝教大師(でんぎょうだいし)や、入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)をしるされた四祖の慈覚大師(じかくだいし)など、大師(だいし)の号がつくお方が、ほかにもおいでですが、「お大師さま、おだいしさん」と馴(な)じんでお呼びすることが多いのはこの慈恵大師です。それは「おみくじ」や「たくあん漬け(比叡山では定心房漬(じょうしんぼうづけ)という)」の考案者としても知られ、第十八代の天台座主として、焼失した比叡山の堂塔伽藍の再建整備、学問の興隆、僧風の刷新など天台宗の発展に尽力され、「比叡山中興(ちゅうこう)の祖」と仰がれているからです。また「まず他人を立て、自らを後にすべし」というご遺誡(ゆいかい)にもみられるように、その広いお心の徳により今にあっても幅広く信仰されているからでしょう。
 でもそれ以上に多くの人々がおすがりするのは、そのあらたかな霊験による『厄除(やくよけ)け大師』としてのお大師さまではないでしょうか。鬼のような姿で我々の災厄を降伏(ごうぶく)してくださる角大師(つのだいし)や、小さなお大師さまの並んだ豆(まめ)大師などに変化(へんげ)されたお大師さんの護符は皆さんお馴じみのことと思います。
 初詣には、ぜひ大師ゆかりのお寺にお参りしてご利益を賜り、今年一年の厄除けを願いたいものです。


除夜の鐘
 
 十二月に入り年の瀬を迎える頃になりますと、行く年を振り返って、名残惜しい気持ちになります。「これで、今年も過ぎて行くのか」と、感慨(かんがい)に耽(ふけ)ってしまう日でもあれば、「明くる年はいい年であるように・・・」と多幸を望む転換区切りの大晦日(おおみそか)の一日でもありましょうか。
 その大晦日・元旦の一日は、今日の一日と過ぎ行く時は同じなのですが、心の面では、大きなけじめの一日なのですね。今年と来年の狭間(はざま)で人生を思う心にあの「除夜(じょや)の鐘(かね)」は響いてきます。大晦日の深夜から元旦にかけて百八の鐘が撞(つ)かれますが、これは、百八の煩悩を除去して清らかな新年を迎えるためです。なぜ百八なのかという理由はいくつかあるようで、俗説では、四苦(四×九=三六)と八苦(八×九=七二)の和(合計)が百八だから、などといいます。人間が持っている煩悩(ぼんのう)ははかりがたく沢山あるということです。煩悩とは、私たちの心身を苦しめ、煩わす心の働きのことですが、その元(もと)になる作用は三毒(さんどく)といって、貪欲(とんよく、むさぼり)、瞋恚(しんに、いかり)、愚癡(ぐち、おろかさ)の三つに集約されます。この三種の毒は、心を病ませ、正しい判断を狂わせてしまいますから、除夜の鐘は、その病んだ心に反省を促しています。「反省のあるところには必ず進歩がある。」そう信じて撞かれる鐘の余韻に耳を傾けたいものです。鐘の音は、なにかを心に響かせてくれる筈。
  今年は殊(こと)のほか悲しい出来事が多い一年でした。
  明くる新しい年は良い一年でありますように・・・・・。   合掌


「有り難う」
 
 「有(あ)り難(がと)う」という言葉は、一日に何十回と無意識でいうんだそうですが、私たちは日に何回いっているんでしょう。
 有り難いとは、有ることが難(むずか)しいことですから、「めったにないこと」ということです。
 仏教では、『人身(にんしん)受け難(がた)し今すでに受く 仏法(ぶっぽう)聞き難(がた)し今すでに聞く』といって、この世に人としていのちをいただいて生まれてくることは非常にまれなことだと考えるのです。いのちあるものは、土の中や草むらにいる虫から、海の中のおきあみや小川のメダカのようなものまでを数えると、それこそ無数です。それら生き物の数に比べた人間の数は何億何兆分の一でしょうか。何に生まれるかわからない中で、いま人のいのちをいただいていることは、そんなにも稀(まれ)なことなのです。
 そしてまた、仏法という尊い教えをいま聞くことができることは大変貴重な得がたいめぐりあわせであるというのです。それは「有(あ)ること難(がた)し」なのです。ですから、めったにないことに巡り会う、また、めったにないことをしてもらったときに「有(あ)り難(がた)い・・・有り難う」という言葉が生まれたのです。「有り難う」は感謝の言葉です。いま自分がどれほど恵まれているかに気づくとき、有り難いなぁという感謝の念(おも)いが湧いてきます。

  はだかにて生まれてきたに何不足
                       小林一茶

 この句を味わいながら、いま人として生まれた有り難さをしみじみ感じてみたいと思います。


南 無(なむ)
 
 仏様に手を合わせる時、その仏様が阿弥陀(あみだ)様だとしたら、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」とお唱(となえ)えします。では、南無(なむ)とはどういう意味なのでしょうか。
 印度(インド)の国に行かれた方は、その国の人びとが合掌して、「ナマス・テー」と挨拶する光景を御覧になられたことがあるでしょう。
 これは「あなたに敬礼します」という親愛と尊敬を込めたことばで、出会った時も別れる時も「ナマス・テー」です。このナマスが「南無(なむ)」なのです。ナマスの語源はナモーで、漢訳して南無と表記しました。音(おん)を写したのです。南無とは、帰命(きみょう)、敬礼(けいれい)の意味で、心の底から全身全霊で仏様を信じることなのです。ですから、「南無仏(なむぶつ)」と唱えたならば、「真心を込めて仏様を信じます」と表明したことになるのです。
 さて、お寺参りをなさる機会がおありでしょうが、その時、まずはじめにお堂におまつりされている仏様のお名前をしっかり確かめてから、お唱えしましょう。
阿弥陀様なら、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」
お薬師様なら、「南無薬師瑠璃光如来(なむやくしるりこうにょらい)」
観音様なら、「南無観世音菩薩(なむかんぜおんぼさつ)」
お釈迦様なら、「南無釈迦牟尼如来(なむしゃかむににょらい)」         などとなる訳です。
 また、マンガ「一休さん」などで、「たすけて」というところを「南無三(なむさん)」という場合があります。これは、南無三宝(なむさんぼう)のことで、三宝とは、仏・法(仏の教え)・僧(仏教教団)の三つの最も大切な心のよりどころという意味ですから、対処に困ってすがる思いでつぶやいたのかも。
 仏様を信じ、仏様がお説きになった教えをよりどころとし、ただひたすら祈りつつ歩むところに心の平安があります。そして、あらゆるものに支えられて生きていることにも気付くのです。

    腰掛(こしか)けし石を
       拝(おが)んで 立つ遍路(へんろ)


お彼岸について
 
 暑い夏もすぎ、ようやくすごしやすいお彼岸のころとなりました。春の彼岸、秋の彼岸と年に二回の彼岸会がありますが、「暑さ寒さも彼岸まで」ということばが示す通り、春には漸く寒さも遠のいて花だよりもちらほら聞こえる頃、秋には夏の暑さも和らいで涼しい風が心地よい頃が彼岸会です。お彼岸は七日間ありますが、その中日は春分の日・秋分の日といって太陽が真西に沈むのに因んで、阿弥陀様の西方浄土に向かって手を合わせ、後生の安楽を願ったものです。
 彼岸とは仏の世界、此岸とは私たちが四苦八苦する迷いの世界です。いうならば、彼岸は遠く、此岸はなれ親しんだ世界ですが、でも、「これでいいのだろうか」とふと考えることがありはしませんか。そんな時、仏の世界を知りたく思うことでしょう。彼岸への道は、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智恵の修行をしつつ歩まねばなりません。ですから、彼岸会には、ご先祖を敬って墓参に行かれることでしょうが、それと共にご自身の心のあり様を見直すことも大切です。
 さて、次のようなご意見とおたずねがありましたので、簡単にお答をいたしました。

  問   「祝日に関する法律では、秋分の日はご先祖を敬い、
    死者をしのぶ日で、いろいろな本にお墓にお参りしまし
    ょうと書いてあります。それは確かにそうだとは思うの
    ですが、あの人を敬い、しのべといわれても無理です。
    散々苦労させられたのですよ。そんな人のお墓にお参り
    しなければいけないでしょうか」

  答   「これは大変シビアな問題ですね。あなたがいわれ
    たあの人が、旦那様なのか、お舅さんなのかよくわかり
    ませんが、ご苦労が多かったことだけはお察しします。
    ですが、そんな方でも阿弥陀様はお救いなさろうとして
    いるのです。なのに、あなたが「地獄に落ちろ」と念じ
    ていたのでは、あなた自身が阿修羅のごとく争いの渦中
    に入ってしまいます。苦労させられた上に阿修羅になっ
    たのでは身も蓋もありません。今日は彼岸会なのですか
    ら、此岸のことは忘れて、彼岸の仏さまの見方を味わっ
    てみてはいかがでしょう。」


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