天台宗について

法話集

No.179

 田舎に生まれた私共の子供のころの遊び相手は、山川草木の自然界でした。
 特に仲間達と遊ぶ場は、お寺や神社の境内でした。まだ小学五年生のころ、お寺の参道に三十段ほどの石段の両側にサツキの植え込みがあり、裏側へ廻ると子供が一人スッポリ入れるほどの空間が四、五ヶ所あり、その中の一つに入って座り込むと、私は何故か心が落着き“ホッ”とする場所でした。その後、子供心に何かあると、何時もその場所に行くことになり、私の“ホッ”とする「巣」になりました。巣というと、盗賊の隠れ家と間違われそうですが、ここは正に私の隠れ家「巣」なのです。「巣」とは誰にも知られない、誰にも邪魔されない、その人の心の憩いの場所というわけです。何かがあって心が行き詰まったとき、そっと人に知られない「巣」に行くことで、精神の緊張が解きほぐされ救われることがあります。

 私は仕事で京都に度々行きます。必ずと言っていいほど訪れる喫茶店があります。いつも店のコーナーの壁ぎわに座ってひとりでコーヒーを飲んでいる初老の女性がいつのころからか声を掛けて来られ、会話を交わすようになりました。「奥さんは、コーヒーが好きなんですね」と、声を掛けると、その女性はにっこりしながら、「コーヒーは好きなんですが、ほかにもいろいろありまして・・・、嫁ともいろいろあって気持ちがイライラすると、いつもここに来るんです。でも、ここで一人でコーヒー飲んでると、いろいろ思い当たることもあり、反省することもあるんですよ」。彼女がこの喫茶店に来るのは、嫁とのいざこざがあったときばかりでなく、なんの理由がなくてもここに来て、一人でぼんやりしていると、心が安まるのだと言います。「それに、嫁の方だって、私がちょっと外に出れば、“ホッ”とすることもあると思うんです。人間はある程度間をおいて考える場所と時間があるといいですね」。
 この喫茶店のひとときこそが、この初老の女性の「巣」なのだと思いました。見事な生活の知恵から生まれた「巣」ではありませんか。

 喫茶店、公園の一角、野におられる石佛の前、ひょっとしたら一番気を許せる友と出会うときにも「巣」はどこにでも作ることができます。


(文・修験道法流 浄光院 栢木 寛照)
掲載日:2019年02月01日

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