天台宗について

法話集

阿弥陀の一心三観

 私たちがよくお唱えする「南無阿弥陀仏」には、天台宗の教えがすべて凝縮されています。阿弥陀の三文字に次の意味が込められています。
阿:原因があって結果が生じるという縁起の教え
弥:すべてのものは関わり合い融合して存在するという諸法実相の教え
陀:すべてのものが仏さまになる可能性をもっているという悉有仏性の教え

 縁起の教えで「原因が苦しみを生じるからこそ何事にも執着せず」、諸法実相の教えで「全てが自分に関わるからこそ他者を思いやり」、悉有仏性の教えで「私たちも仏さまになれるからこそ仏さまの境地にいたることができる」と思うことができるのです。このような気持ちで「南無阿弥陀仏」と唱えることが大切です。

 より詳しい内容を記します。

 私たちが、「南無阿弥陀仏」とお唱えしたならば、仏の悟り、諸法実相、一切衆生悉有仏性を伝えられないことはありません。
 「南無阿弥陀仏」と唱える時には、『観心略要集』の「仏の名を念ずるとは…謂く阿弥陀の三字に於いて、空仮中の三諦を観ずべきなり。彼の阿とは即ち空、弥とは即ち仮、陀とは即ち中なり。」と、「南無阿弥陀仏」と唱えながら一心三観するのです。三観とは、中論の「因縁所生の法は、我れ説きて即ちこれ空、また名づけて仮名なり、またこれ中道の義とす」であり、「縁起・無自性・空」と観想するのです。

 一心三観の空観は一切の存在を、「縁起、因縁和合して仮和合している存在は、→無自性であり、実体はなく、→空である」と、心を無執着の世界へ、空へと運ぶことです。

 一心三観の仮観は、この現実を見たなら、縁起、因縁和合して仮和合している存在あると認識するのが仮観です。菩薩は「諸法は、因縁和合して仮和合している存在は→無自性であり、実体はなく、→空である。(空に留まることなく)空は→無自性であり、実体はなく→諸法は縁起、因縁和合して仮和合している。」と、仮(有)から→空(無)へ、空(無)から→仮(有)へと進まなければなりません。それ故、因縁和合なる世界なればこそ、心を縁の社会にかけて、衆生無辺誓願度となるのです。

 一心三観の中観は、一切の存在や、有無を分別する、迷いを離れた、本来の、自性清浄の心は、凡夫、聖人に隔て無く、生死因果の世界に改まらず、三世に常住にして、有無、二辺(仮、空)に左右されず、同時に、一体無二にして、二辺同時に矛盾なく、こだわらない、動ぜられない、涅槃寂静なる世界に、心を運ばせることです。

 更に、「往生要集」の第四章 「正修念仏」の五念門は、
一、礼拝門――阿弥陀仏を礼拝する。
二、讃嘆門――阿弥陀仏を讃嘆ずる。
三、作願門――菩提心(悟りを求める心)を起こす。
四、観察門――阿弥陀の姿を観想する。
五、廻向門――善根を一切衆生と自らのさとりのために振り向ける。
であり、恵心僧都の念仏思想的根拠、作願門には、「およそ浄土に往生せんと欲せば、要ず発菩提心を源となす…菩提心とは、仏にならんと願う心であり、それは、…上は菩提を求め、下は衆生を求う心、四弘誓願の心を保持し行ずるのである」と。そこで、四弘誓願の心で「南無阿弥陀仏」と唱えるのです。
衆生無辺誓願度 ― 縁因仏性 ― 応身の菩提の因 ― (仮)
煩悩無辺誓願断 ― 正因仏性 ― 法身の菩提の因 ― (中)
法門無尽誓願知 ― 了因仏性 ― 報身の菩提の因 ― (空)
無上菩提誓願証 ― 仏果菩提を願求する      (心)

 仏性の一心三観は仏性開顕の三原則、三因仏性の正因仏性(中)、縁因仏性(仮)、了因仏性(空)で「南無阿弥陀仏」と唱えます。正因仏性は、私たちは、「幸せに」なれる存在であると信じ、確信することであり、了因仏性とは、それぞれの「努力」であり、縁因仏性とは、人々の励ましです。この、三因が一体となり、「幸せに」(悟り)向かって進み入るのであります。

 本覚の一心三観(修禅寺決)とは、「心と佛と及び衆生この三、無差別」が「中・空・仮」である。「南無阿弥陀仏」をとなえるとともに、心(己心・中)と佛(仏のこころ・世界、宇宙・空)衆生(人々の心・社会・仮)とは一体無二であると観想します。

 臨終の一心三観は「南無妙法蓮華経」(修禅寺決)です。


(文・北総教区 秋田 光兆)
掲載日:2018年07月01日

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