『願文』(がんもん)

悠々(ゆうゆう)たる三界(さんがい)は純(もっぱ)ら苦にして安きこと無く、擾々(じょうじょう)たる四生(ししょう)は唯(ただ)患(うれい)にして楽(たのし)からざるなり。牟尼(むに)の日久(ひさ)しく隠れて慈尊(じそん)の月末(いま)だ照さず。三災の危(あやう)きに近づき五濁(ごじょく)の深きに没む。
加以(しかのみならず)、風命(ふうみょう)保ち難(がた)く露體(ろたい)消え易(やす)し。
草堂(そうどう)、楽(たのし)み無しと雖(いえど)も、然(しか)も老少白骨(ろうしょうびゃっこつ)を散じ曝(さら)し、土室(どしつ)、闇(くら)くせましと雖(いえど)も、而(しか)も貴賤魂魄(きせんこんぱく)を争い宿す。彼を瞻(み)、己を省(かえりみ)るに此(こ)の理(ことわり)必定(ひつじょう)せり。
仙丸(せんがん)未だ服せざれば遊魂(ゆうこん)留め難く、命通(みょうつう)未だ得ざれば死辰(ししん)何(いつ)とか定めん。
生ける時善を作(な)さずんば、死する日獄(ごく)の薪(たきぎ)と成らん。
得難(えがた)くして移り易(やす)きは其(そ)れ人身なり、発(おこ)し難(がた)くして忘れ易きは斯(こ)れ善心(ぜんしん)なり。
是(ここ)を以(もっ)て法皇牟尼(ほうおうむに)は、大海(たいかい)の針、妙高(みょうこう)の線(いと)を假りて人身(にんしん)の得難きを喩況(ゆきょう)し、古賢禹王(こけんうおう)は一寸の陰(とき)、半寸の暇(ひま)を惜(おし)みて一生空しく過ぐるを歎勧(たんかん)せり。
因(いん)無くして果(か)を得(う)、是(こ)の處(ことわり)有(あ)ること無く、善(ぜん)無くして苦を免(まぬが)る、是(こ)の處(ことわり)有(あ)ること無し。

※( )は漢字のよみがな