ある夏のこと、小学校の林間学校での出来事です。先生は生徒を集めて言いました。
「今日は山登りをする。ほら、あの山だ。だが、みんな、気をつけてくれ。あそこにはマムシがたくさんいるからね。マムシに噛み付かれたら死んじゃうよ。そこで、これを用意した。長靴だ。これを履けば、足を噛まれても大丈夫。それからこの竹の棒、先頭の人がこれを持って、前をたたきながら歩く。そうすれば、マムシは逃げるだろう。では、出発するぞ。先頭には誰がなってくれるかな」
先生はそういって生徒にうながしましたが、みんな怖がって、誰ひとり先頭に立つものはいません。
「しかたがない。それでは先生が先頭になろう」
と言って、先生が先頭になって歩き出しました。
ビシッビシッと竹の棒で草木をたたきながら登っていったのです。しばらくして先生は、竹の棒をスポンとほうり投げ、
「あれ、棒があんなところに飛んでいっちゃった。君たち拾って来てくれないか」
と生徒たちに頼みましたが、マムシが怖いので、拾いに行く者はいません。
「じゃ、仕方がない帰るとするか。まわれ右して、一番後ろの者が今度は先頭になれ」
するとどうでしょう。みんな嫌がって、結局、先生がまた先頭になって帰ったのです。
さて、夕食に一同が集まった時、先生はこういいました。
「今日はみんなに魔法をかけてみた。魔法に使った道具は三つ。長靴と竹の棒と“マムシがいるぞ”という言葉。この三つの道具で、マムシがいると思い込んでしまった。実際はマムシなんか一匹もいません」
これは『ことば・詩・子ども』という本に載っていた話です。
「マムシがいるぞ」というほんのちょっとした言葉と小道具によって、マムシがいると想像してしまったのです。
私たちの心は、真実でないものをあたかも真実であるかのごとく思い込んでしまうところがあります。ですから、心のありようがとても大切なのです。
心こそ、心迷わす心なれ
心に心、心ゆるすな
という句を座右銘にして、日々の用心にしたということです。
あるいはまた『月庵仮名法語』に
「仏法というは、別の事にあらず。只、我が心なり。我が心を善く持てば即ち仏の心なり」といっています。
日々の自分の心をいかに保つか。どうもこれが人生の鍵のようです。