昨年の暮れに、小学校の同窓会に15年ぶりに出席した時の事です。年齢は、先生を除いて、みんな61歳。
参加者の中には、地元を離れ、やっと定年を迎え、時間に余裕が出来たので初めて参加したという人も何人か居ました。
一人ずつ前に進んで、自己紹介が始まりましたが、顔を見ても当時とのギャップが有りすぎて思い出せない人がいっぱいです。
卒業から49年、今では、みんな来賓の先生方に引けを取らない程の立派な爺さんや婆さんに成っていたのです。
そこで、誰が持って来たのでしょうか、何冊もの卒業アルバムが会場を回り始めました。私の所へアルバムが回ってきた時の事です、ある事に、ハッと気づきました。
卒業写真の中から、順にマイクで自己紹介をしている旧友より先に、まず、自分の写真を探している私に気づいたのです。
一番仲の良かった親友より、早くに自死した友より、あれだけ慕っていた女先生よりも先に、自分の写真を探している卑しさに。
伝教大師様の「忘己利他」には程遠い、自分の事が一番大切で、自分が一番愛しいという自己中心で浅ましい心に気付いたのです。
最低な私です。
しかし、来年6月に一千年御遠忌を迎えられる、恵心僧都は「念仏法語」中で、「人かずならぬ身の卑しきは、菩提を願うしるべなり」と、そんな私を救って下さいます。卑しさに気づき南無阿弥陀仏と唱えよと。
「また、妄念は、もとより凡夫の地體なり」妄念の外に別の心は無いよ、とも教えて下さいます。
私のような真の凡夫は、このお言葉に、ほっと癒され、楽な気持ちにさせて頂けます。
「妄念を厭わずして、信心の浅きを嘆き、志を深くして常に名号を唱えるべし」とも、
妄念の塊である私と気づき、妄念そのまんまの凡夫の心で、信じて念仏せよと。
泥の中から花を咲かせる、蓮華のように誰でも、必ず妄念の泥の中から花を咲かせる(往生する)ことが出来るよと、教えて下さっています。有り難いです。南無阿弥陀仏。
(文・三岐教区 佛眼院 佐後映雄)