天台宗について

法話集

No.100

 一番好きな季節といったら、それはやはり春でしょうか。4月になっても本堂の軒下にはかなりの雪が残っていて、この雪は一体いつになったら消えるのだろうと思っていると、いつの間にか溶けてなくなっていて、その下には雑草がしっかりと芽を出しています。夏にはいまいましげに見える雑草も、このときばかりはいとおしく思われます。
 今年(平成24年)の桜はまた格別でした。何十年もの間、桜を見続けて来ましたが、桜色という色がこれほど人の心をなごませてくれる色だとは知りませんでした。これはわたしだけの思いではなく、まわりの人たちからも「今年の桜は色が濃い」とか「今年ほど桜の咲くのが待ち遠しかった年はない」という声が聞かれました。もしかしたら東北の人たちは皆、特別な思いで今年の桜を眺めたのかもしれないと、わたしは勝手に考えています。
 昨年の桜はどんなふうだったのか全く覚えていません。あのころ、津波に襲われた東北の沿岸部では行方不明者の捜索が続いていて、日を追うごとに犠牲者の数が増え続けていました。日常の中に非常があり、生の中に死があり、当たり前のことが実はとてつもなく難しいことなのだということを思い知った春でした。
 そして今年の桜は、普通の平凡な暮らしの有り難さ、得難さの象徴だったような気がします。何げないふつうの生活が、無数の人々の営みや自然に支えられて成り立っているものだということを多くの人たちが強く意識しました。支え支えられている関係は流動的で、常に変化します。今日と同じ明日がくるとは限りません。いいえ、今日と同じ明日は来ないのです。そのことが時として不条理とも理不尽とも思えるような苦しみをわたしたちにもたらします。しかしすべてのものは移り変わる(無常)がゆえに、絶望の中に希望を見いだすこともできるのです。
 来年はどんな桜が咲くのでしょうか。その桜をわたしたちはどんな思いで眺めるのでしょうか。それよりなにより、来年わたしたちはその桜を目にすることができるのでしょうか。
(文・藤波洋香)
掲載日:2012年07月04日

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