天台宗について

法話集

No.196「ご縁」とは

 護摩木や祈祷札の願意を拝見いたしますと「良縁成就」と書かれてあるのをよく見かけます。また「悪縁断絶」などというものもあります。「縁結び・縁切り」。良いことは自分に来るように、悪いことは自分には来ないようにというのは、誰もが共通した願いでしょう。

 この「縁」という言葉は「縁起の法」「十二因縁」などといい、お釈迦様が悟りを開かれて最初に弟子たちにお説きになった根本教理の一つ、悟りの内容そのものであります。「この世の現象は原因や条件が相互に関係しあって生まれ出た結果である。すべては縁によって成り立っているのだ」とお気付きになられたのです。

 「由縁」「無縁」「縁故」「血縁」「外縁」「今日は縁起が悪い」「良いご縁がありますように」「悪縁を切れますように」など、日常的に使われている言葉ですね。

 これらは「縁」という現象に良いものと悪いものがある、または原因と結果とつなぎ合わせる接着剤のようなもの、とみているのでしょう。「縁が無かったようだから諦めよう」とか「良いご縁に恵まれた」とか「ご縁を頂きたい」とか。それはある面けっこうなのですが、それだけでは理解がちょっと違ってくると思うのです。

 縁とは、ある事柄に私が遇うという縁があった、または遇わないという縁があった。ある現象と離れられない縁があった。自分にとって良いと思われる現象が生じる縁がなかった、という風に考えなおしてみてはいかがでしょう。「良い縁悪い縁」とか「縁が有る無い」ということではなく、私を包む全ての事柄も、一見無関係な現象も、私という存在も「縁」そのものと理解するのです。そうすれば「良い悪い」や「有る無し」は無意味であるとわかりますし、そもそもその区別すら無いと知ることができます。

 では「良いご縁」を祈ることは間違いなのでしょうか。「様々なご縁によって私は今ここに生かされている」と知ったうえで「良いご縁を結ばせてください」と祈るならば、それは清らかな心をもたらす最も近い方法なのです。


(文・延暦寺一山 恵光院 小鴨 覚俊)
掲載日:2020年08月01日

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