天台宗について

法話集

No.151正しい人生を生きるために

 正しい人生を生きるというのは、天寿をまっとうする生き方を貫くということです。
 天寿とは、天からもらった命、祖先から受け継いできたこの命のことです。
 しかし自分がいったいいくつまでの寿命をいただいているのか、誰もわかりません。だからこそ、生きているとき、天寿いっぱいに生きる生き方をしていく必要があるのです。
 自殺など、ゆめゆめ考えてはならないことです。
 正しい人生とは、自然に即した生き方を続けていくことだと思う。
 自然に即した生き方とは、祖先を尊敬し、両親に孝行し、慈愛を以て人に接し、全てをありのままに見て善悪を見極め、中道に立ち、つねに正しい道を行く生き方だと思う。
 そういう生き方をするためには、正しい判断とか正しい価値観を持つことが必要となります。

 現代人はみな学校教育を受けていて、一定の常識や判断力を持っているはずなのですが、それがどうも正しい生き方に活かされていないように思う。
 たとえば、霊の問題です。昨今、いろんな霊能者がテレビなどマスコミに顔を出しています。彼らによると、地縛霊とか浮遊霊がいろんな場所にいるらしいのですが、どうしてそういうことが事実だと多くの人がいとも簡単に信じてしまうのでしょうか。
 テレビで、ある有名な女性霊能者がスタジオ見学の一人の女性に向かって腰のあたりを指さし、「ここに魚の霊がいます」と言っているのを見たことがあります。すると、その女性はハッとした顔になって、「実は金魚を飼っていたのですが、その金魚が死んだんです」と答えたのです。これに対して、霊能者は「そうでしょう、その金魚の霊ですよ、あなたは金魚をかわいがっていたので、喜んで金魚の霊が来ているんだから供養してあげなさい」と言うと、その女性は涙を流しているんです。
 金魚一匹供養することは別に悪いことではありませんが、金魚一匹で涙を流し供養。供養といえば、魚を食べている者はどうなるんでしょうか。一度チリメンジャコを手の平にのせて一口で食べられるだけ口の中に頬張ってみて下さい。一度に何匹のチリメンジャコが口の中に入りますか。おそらく数百匹くらい入ります。数百匹のチリメンジャコの霊はどこに文句を言いに行くのでしょうか。お尋ねしたいものです。
 自称霊能者が言う霊の存在を頭ごなしに信じてしまうのは、人がそれぞれにやましい気持ちや罪悪心を持ってるからだと思います。そして供養が一種のインスタント懺悔になっているのではないでしょうか。

 お釈迦さまの弟子たちが、霊についてお釈迦さまに尋ねると、「霊魂はあるだろう。しかし、霊魂は肉眼では見えない。見えないものは論証できない。論証できないものを論ずるな」と弟子たちに厳しく言っておられるのです。さらに「たとえ目に見えない霊魂を万一もしも論証できたとしても、自分が正しい人生を歩む上で何ら関係ない」ともうしておられる。それでも弟子たちは、もっと深く知ろうと質問するが、お釈迦さまは一言「不説」、これ以上説かないと申されています。お釈迦さまですら霊については、そこで止めておられるのに、霊を売り物にしたり、金儲けのタネにしている人は言語道断であり、佛教とは無関係の人だと思う。
 キリスト教も、霊の呪縛とか浮遊霊というようなあいまいなことは言っていません。日本でも古くから用いられてきた本覚讃の中で、お釈迦さまは、どんな人の心にも既に三十七の諸佛諸尊が住んでいると言っておられます。なのに、その上守護霊を持てなどとわざわざいかがわしい魂を持ってくることはないと思う。
 守護霊があなたを護ってくれているなどと言われれば、その場では救われたような感じを抱くかもしれませんが、正しい人生を歩むこととはまったく関係のない事柄だと思います。


(文・修験道法流 浄光院 栢木 寛照)
掲載日:2016年10月01日

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