天台宗について

法話集

No.107不殺生(ふせっしょう)について

 私たち人間は自然界のなかで、もっとも脆弱(ぜいじゃく)な生き物であります。そして、植物であれ動物であれ、そのいのちを殺生し、食糧として口に入れなければ、生き続けることはできません。
 人類が、太古の昔から今日まで生き続けてきたのは、自然界に存在する他のいのちを殺生しながら、その生きものたちと調和を保ってきたからであります。私たち人間が、そのいのちを維持できたのは、他のいのちを遠慮なく殺生し、口にいれなければなりませんでした。
 生きるために殺生し、これからも食糧として殺生し続けなければならない人間に、なぜ、お釈迦様は不殺生を説かれたのでありましょう。
 立派に成長した野菜が茎から切り離される。米・麦が穂から刈り取られる。精進の野菜のみを食し、魚類・家畜の類を食するな。と説かれたのではなく、私たち人間のために差し出された、すべてのいのちに感謝しなければならない。とお諭しになられたのであります。
 どのいのち一つをとっても、単独で存在することはできません。必ず他の生き物との支え合いによるものであり、たった一つだけでいのちを繋ぐことはできません。
 私たち人間は、仏教の根本思想である因縁の理(ことわり)のなかで、生かされているのであります。お釈迦様も因縁に支えられたいのちを生き抜かれたのであり、私たち人間も同じように生きているのであります。
 私たち人間は、他のいのちを殺生しなければ生きられません。生きるために、他のいのちと調和をはかり、感謝し、有り難く思わなければなりません。
 私たち人間は、生きるために、これからも殺生を繰り返し続けます。精進のみを食し、生ものを食するな。と説かれたのではなく、人間を支えてくれる、すべてのいのちに感謝しなさいと教えられたのであります。
 他のいのちの存在に感謝し、その価値を認めることは、人間が一生懸命生きるなかで、食糧として口に入れた他のいのちを生かし切ることなのです。そこに不殺生を説かれた意味があります。
 他のいのちを損なうことなく生かし切るところに「もったいない」という言葉が生まれました。食べ物の一片だけを口にして、美味しい不味いといって無駄にしたのでは、私たちのいのちを支えてくれた、他のいのちに申し訳が立ちません。
 いのちの最上位にあり、すべてのいのちに支えられている私たちは、誠に有難い存在であり尊い存在であることを、胆に命じなければなりません。

(文・小山健英)
掲載日:2013年01月28日

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