天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第92号

戦争、テロ、貧困や抑圧からの解放を訴える
第24回「世界宗教者平和の祈りの集い」スペイン・バルセロナ

 今年第二十四回を迎える「世界宗教者平和の祈りの集い」が十月三日から五日まで、スペインのバルセロナで開催され、天台宗からは杉谷義純天台宗宗機顧問を名誉団長とする十八名の公式代表団が参加した。代表団は、現地で他の日本宗教代表と共に平和祈願法要を行い「世界の人々が、戦争やテロ、貧困や抑圧などから一日も早く解放され、安寧に生きることができる日が訪れることを切に祈る」という平和祈願文を神仏に捧げた。

 聖エジディオ共同体が主催する平和の祈りの集いは、三日にカタルーニャ音楽堂でオープニングセレモニーが行われ、ジョルディ・へルウ・バルセロナ市長の挨拶に続いて、ディミトリ・クリストフィアス・キプロス大統領、ブヤノビッチ・モンテネグロ大統領、ムショカ・ケニア共和国副大統領らが祝辞を述べた。
 四日、五日には、二十四の会場に別れてパネルディスカッションが行われ、天台宗からはピカソ美術館を会場に行われたパネル22『祈りは弱まったか』に杉谷顧問が「現代人の祈りは弱まったか」と題して、またレイアール・アカデミアで行われたパネル23『アジアの宗教と命の価値』では栢木寛照天台宗宗議会議長が「アジアの宗教と人間の尊厳の価値」と題して、それぞれスピーチ。
 この中で杉谷顧問は「大航海時代に、ヨーロッパ文明は圧倒的な力で土着の民族をその文明もろとも放逐し、正義の名のもとに新しい国を打ち立てた」と、新大陸を発見したとされるスペインのコロンブスを非難し「人権を脅かされている少数民族の悲劇は、世界各国で今日まで続いている」と述べた。
 また栢木議長は「アジアは、貧困ゆえに人の命が粗略に扱われている。ひとつの価値や正義だけで縛るのではなく、他を認め尊重しあう、これこそが命を尊ぶことである」と語った。
 同日、夕刻に各宗教代表たちは、各々の宗教・宗派で平和の祈りを捧げたあと、バルセロナの「王の広場」に集結。閉会式の行われる大聖堂広場へと平和の行進に移った。
 閉会式では、バルセロナ平和宣言が採択され、宣言書への署名が行われたあと、平和の灯火に移った。天台宗からは杉谷顧問、栢木議長、西郊良光天台宗宗機顧問が平和のキャンドルに点灯した。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

皆人の知り顔にして知らぬかな 必ず死ぬる習ひありとは

慈 円

 慈円は天台座主で、没後十三回忌に四条天皇から慈鎮和上の諡号(しごう)を賜った高僧です。史論「愚管抄」の著者で、新古今時代有数の知識人であり、僧階の最高位である大僧正でもありました。 
 この歌は、新古今和歌集の第八哀傷の部にあります。「人は皆、誰でも死ぬものだ、としたり顔をして言っているが、なに本当は知ってなんかいないのだ、人は必ず死ぬ習いだってことをね」という意味です。
 ある作家は「人間というのは矛盾そのものだ。生まれれば、その日から死に向かって生きていくのだから」と言っています。けれども、私たちは普段は全くそのようなことは考えていません。画家のマルセル・デュシャンの墓碑銘には「さりながら、死ぬのはいつも他人」と彫られているそうですが、今生きている者にとって「死ぬのはいつも他人」です。
 阿純孝天台宗宗務総長によれば「人は気軽に『誰もが死ぬのだから、自分がいずれ死ぬことはわかっている』などと口にします。『いずれ』とは、本来の意味は『今日も含めたいつかの日』を意味しますが、しかし、多くの人間、特に健康な人は、自分の『いずれ』には、(はるか先)とか(ずっと先)とかいったカッコ書きをつけて、特別扱いするものです。死の定めなどないはずなのに、できるだけ先に追いやり、忘却の彼方に置こうとします」(般若心経の教える幸せになるための智慧・ソフトバンク新書)ということになります。
 慈円は天台座主を四度も務めるなど、時代の激しい政争の中を生き抜いた人です。その人が詠んだこの歌には、市井の人が気軽に「誰もが死ぬのだから、自分がいずれ死ぬことはわかっている」というのとは、全く違う凄みのようなものが感じられます。
 私たちも、一日に一度でも『私は死ぬ』と考えてみれば、のんべんだらりとした生き方が全く違ってくるのではないかと思います。

鬼手仏心

国宝『久隔帖(きゅうかくじょう)』流転由来           天台宗参務社会部長 村上 圓竜

 
 宗祖伝教大師が高野山にいた弟子泰範に出された唯一の手紙(尺牘(せきとく))が久隔帖と呼ばれていることはよく知られていることで、格調高い文章からはその人柄が滲み出ています。
 冒頭「久しく清音を隔て、馳恋極まり無く」で始まることから久隔帖と名づけられています。空海から贈られた詩の中の「一百廿禮仏・方圓圖・註義」についての意味を空海から聞いて、おおよその意味を知らせてほしいとの内容であります。
 今この貴重な伝教大師自筆書簡は、比叡山にはなく奈良国立博物館に所蔵されているが、その伝来の一端を述べてみたい。
 ある時、友人からの電話で、知人から頼まれた所蔵目録の中に伝教大師の書簡があるけど興味ない(買わないか)とのやり取りがあった中で、その書簡が「久隔帖」であると聞かされ、ビックリするやら呆れるやら。
 それは奈良博にあって国宝だよ、と言うと、彼はそうか売れているのか、との返事にまたビックリしました。誰の所蔵目録かと尋ねると、原三渓(富太郎)が所蔵していた目録であると明かしました。
 すると、一時は横浜随一の財閥になった原三渓が所蔵していたことになる。俄然興味がわき、調べてみると青蓮院旧蔵で、いつの頃からか香川県大川郡志度町にある多和神社多和文庫の所蔵になり、何らかの理由で原三渓に渡り、最後は国(奈良博)に永久保管されたわけである。
 一世紀の間に三度も流転した宗祖の手紙が天台宗に何の縁もなかったことは残念極まりないことではあるが、およそ千二百年間を経て宗祖の生の声ともいうべき手紙が現存している有難さを感じています。

仏教の散歩道

世間の物差し

 南方仏教(いわゆる小乗仏教です)の僧が書かれた本の中に、転職の問題に関するこんなアドバイスがありました。人が、いま勤めている会社を辞めようかと迷ったとき、会社の方から「辞めないでほしい」と惜しまれる人であれば、その人は次の会社で成功する。逆に、クビにされそうな人が辞めても、その人はどこに行っても成功しないだろう。そんなアドバイスです。
 またこの著者(名前は伏せておきます)は、会社選びは「自分が発展できるかどうか」で決めるべきだ。自分が発展し向上すれば、給与は上がる。そんなふうに言っています。
 そしてこの著者は、これが「ブッダの教え」であると言うのです。タイトルの一部に「ブッダの教え」とあるからです。
 〈馬鹿なことを言うな!〉
 それを読んで、わたしは思わず腹を立ててしまいました。これじゃあまるで、有能なサラリーマンには存在価値があるが、無能な人間には存在価値がない、と言っているみたいではありませんか。
 存在価値というのは、その人がこの世に生きている「値打ち」であり「意味」です。そして、ある人が別の人にくらべてこの世に生きている意味が大きかったり、小さかったりするわけがありません。少なくとも仏の目で見れば、すべての人の生きる値打ち・意味は同等です。なぜなら『法華経』の中で釈迦は、すべての衆生が、
 -仏子-
 であると言っておられるからです。わたしたちはみんな仏の子なんです。すべての人が幸せになるように仏は願っておられます。「おまえなんか、生きている値打ちはない」と、仏が言われるはずは絶対にありません。
 南方仏教の僧が言っているのは、人間の有能/無能です。あるいは高収入か/低収入かです。それは人間の存在価値ではありません。それは人間の商品価値であり、世間における物差しです。
 そして仏教者は、人間を商品価値・世間の物差しで見てはいけません。金持ちか/貧乏人か、優等生/劣等生、勝ち組/負け組といった世間の物差しで人間を判別し、そして金持ち・勝ち組の人たちを褒めそやし、劣等生や貧乏人を軽蔑するよう人は、仏教者とは言えないでしょう。この世の中では、いくら努力しても運が悪くて成功できない人がいます。そういう人々に同情し、「運が悪かったんだね」と一緒に泣いてあげるのが仏教者でしょう。どんな人をも仏子として拝むことのできる人が、じつは仏子です。仏子でなければ、他人を拝むことはできません。仏子でない人は、勝ち組に媚び(こ)へつらい、負け組を嘲るでしょう。
 わたしは南方仏教のお坊さんが書かれた本を読んで、〈ああ、この人は仏教者じゃないな〉と思いました。世間の物差しで見ているからです。

カット・酒谷 加奈

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