天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第53号

三県特別布教を各地で開催

 天台宗では、開宗千二百年慶讃大法会事業の一環として広島県・鹿児島県・沖縄県への「三県特別布教」を計画、昨年までの広島、鹿児島に続き、去る七月一日には初めて沖縄で特別布教「天台宗開宗千二百年記念特別特別講演『己を忘れて他を利する』」を実施し、成功を収めている。なお、同月十四日には広島で三年連続の特別布教、また二十一日には二年連続で鹿児島特別布教を行っており、天台宗寺院が少ない三県に「天台の教え」が弘まる素地ができたと言えよう。

 三県特別布教は、平成十七年七月に広島県で初めて実施された。
 その後、平成十八年には、同じく第二回目の広島特別布教と鹿児島県での第一回特別布教が実施されている。いずれも多くの参加者があり、その成功が今回の沖縄県での「天台宗開宗千二百年記念特別講演」に結びついた。
 沖縄県での特別布教は今回が初めてであり、参加者も未知数であったが、フタを開けてみると、入場者は約千七百名にのぼり、会場の沖縄コンベンションセンター・劇場(沖縄県宜野湾市)は満席となった。定刻より早めの出足となり、午後五時半の開演を前に上映された天台宗紹介の映像を、熱心に鑑賞する姿が多かった。
 開演後も、天台声明の実唱では、初めて声明に接する人がほとんどのようで、演者の所作に見入ったり、朗々とした節回しを興味深げに聴き入っていた。
 メインの瀬戸内寂聴師の講演では、瀬戸内師が天台僧として生きてきた人生をユーモアたっぷりの口調で語り、満場の参加者を魅了していた。
 また、同月十四日には、広島県で三回目の特別布教が行われた。会場は前回までと同じく広島市平和記念公園。第一部は同公園内の広島国際会議場において酒井雄哉大阿闍梨が「道遙かなり」と題して講演、引き続き同公園内原爆供養塔前広場において、「戦歿者慰霊・世界平和の祈り」法要を酒井大阿闍梨を導師に厳修した。
 鹿児島県では、同二十二日に鹿児島市の南泉院(宮下亮善住職)で特別布教「六月燈と天台の夕べ」を実施しており、同県も二回目を数える。
 今回はミャンマーで教育支援の活動を行っている宮下住職の講演や、最後の琵琶盲僧と言われる永田法順師(宮崎県延岡市浄満寺住職・宮崎県無形文化財)の琵琶演奏が行われた。
 天台宗寺院が少なく、天台宗の教えに接する機会があまりない地域に対する布教の実践は、持続的に行わなければならない。これら特別布教により素地はつくられた。
 今後その種から芽が育ち、やがてはしっかりと根を張って大きな葉が茂るように、宗として取り組まねばならない。

……………………………………………………………………………

天台宗檀信徒会会長会議を開催
-事業報告・計画、予決算などを審議-

 天台宗檀信徒会(藤崎勲会長)では、七月十一日に平成十九年度会長会議を開催、昨年度の事業報告・収支決算報告並びに本年度事業計画・収支予算案などの審議を行い、提出案件は了承された。また、役員の任期満了に伴い、会長など新役員も選出、会長
は藤崎現会長の留任となった。
 なお同会では、開宗千二百年慶讃大法会事業として、宗祖の聖句を刻んだ石碑を比叡山に建立し、五月三十一日に除幕法要を執行している。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

 私はとっても勉強ができない。私はいつもいつも、私はバカだと思ってしまう。勉強も運動もならいごとも何のとりえもない私がだんだん情けなくなった。(中略)分かっているんだけどどうしても手があげられない。自信がないからだ。こんな、何もできない私は、自分が憎い。

金森俊郎著「いのちの教科書」(角川文庫)より

 金森先生は、日本で初めて小学校で「いのちの教育」を実践し、大きな注目を集めた教育者です。その活動は、NHKスペシャル(二〇〇三年)で放送され反響を呼びました。
 金森先生は、人間は世界にたった一人の個性的で奇跡的な存在であるという理由からいのちを学ぶ授業をしています。教師が教えるのではなく、死に直面し、生きることの意味をぎりぎり問うている人から直接、子ども達に語ってもらうという方式をとっています。
 自分のいのちを大切にして仲間と一緒にハッピーを創り、一緒に生きようぜ、という空間や関係を作ることがその根底にあります。
 金森先生は、子ども達に「死にたいと思ったことはあるか」と問いかけます。そのことについて愛弓という少女が冒頭の作文を書きました。このような本当の言葉が出るのは、教師と生徒との間に強い信頼関係があるからです。その信頼は一朝一夕にできたものではありません。
 この作文について子ども達は「気持ちはよくわかる。一緒に生きようぜ」と応じるのです。彼女は、勉強や運動や習い事ができないために家族から手ひどく扱われていたのです。彼女は、自分も頑張っている、そのことを皆に(社会に)分かって欲しいと言いたかったのです。金森先生は、自分への憎しみが溜まってくると、いつか他者への憎しみと暴力に転化すると分析しています。
 何かあれば「いのちは大切だ」と誰もがいいます。そんなことは、子ども達も分かっています。それでも追い込まれている内側の問題、それを理解するようにしなくては、問題は解決しないと思います。
 子どもが死にたいと思う理由で一番多かったのは「親に叱られたとき」でした。

鬼手仏心

八月の対話  天台宗出版室長 谷 晃昭

 
 八月は日本人にとって「死者との対話」の月だ。
 京都の夜を彩る「大文字」は八月十六日、盆の送り火の行事である。盆には先祖の霊がこの世に帰り、私たち子孫、末裔とひとときを過ごす。これに対して精一杯のもてなしでお迎えし、接待し、お送りするのが盆の行事である。最近は先祖に留守を頼んでレジャーに出かける場合もあるようだ。そのほうが気が楽だという先祖もいるかもしれないが、ちょっと気の毒な感じもする。折角の機会なんだからゆっくり話ししたら良いのになと思う。
 六日は広島の原爆犠牲者の慰霊祭、九日は長崎の慰霊祭である。ここでも日本人はこの惨劇の犠牲になった人たちと話し合わなければいけない。
 これは単に犠牲になった方の遺族や友人として、と言う意味ではなく、日本人として六十二年前に起こったこの事実にしっかり正面から向き合うということである。なぜこの方々の犠牲が必要であったのか。本当に必要だったのか。ひとり一人がもう一度真剣に考えてみるということである。
 当然、八月十五日、終戦の日も同じことで、日本人が過去に経験した戦争という体験を、経験者も(高齢化して、生きておられる方も少なくなっているが)また、経験しなかった世代も一緒に考えてみる時ではないかと思う。その中から平和の尊さと、これを守っていく難しさを繰り返し繰り返し確認することが大切なのであろう。それでなくては犠牲になった人たちの存在の意味がないではないか。
 そして八月四日は比叡山で「世界平和の祈りの集い」が開催され、今年は二十回を記念し寄贈された「世界平和の鐘」の音が祈りの合図としてならされる。
 全ての人々の上に平安のあらんことを心から祈る。

仏教の散歩道

繋驢橛(けろけつ)

 「繋驢橛」(けろけつ)といった言葉があります。禅の世界で言われるものです。
 “橛”は杭(くい)です。ろば(驢)が杭に繋(つな)がれています。それが「繋驢橛」。
 そうすると、ろばは逃げようとします。あるいは、遠くにある草を食いたいと思い、動き回ります。でも、縄で杭に繋がれているので、杭の周りをぐるぐる回るはめになります。そうするとだんだん縄が短くなり、ついには動けなくなる。つまり、自縄自縛になるのです。「繋驢橛」なんです。
 そんなの、逆回りすればいいじゃないか、と見ている人間は思います。でも、ろばにはそんな知恵はありません。そして、人間だって、ろばとそう変わりません。神経症の患者の「とらわれ」の状態もこれによく似ていると言われています。
 開いている所から部屋の中に入ってきた雀が窓の外に逃げようとしてこんどは、閉じている窓ガラスに突き当たり、バタバタしていることがあります。入ってきた所から逃げればいいじゃないか、と言われても、雀にはそれが見えないのです。われわれ人間だって、冷静になればわかることでも、苦境におちいった人間には出口が見つからず、もがき苦しむはめになるのです。ろばや雀を笑えませんね。
 では、苦境におちいったとき、わたしたちはどうすればいいのでしょうか………?
 杭に繋がれたろばは、ともかくも杭に繋がれているのです。そして、ろばの力でもってはその杭から自由になることはできません。だとすると、まずは「あきらめること」です。あきらめは断念することではなしに、第一義的には「明らかにすること」です。自分は杭に繋がれていて、自分の力でもってはこの束縛から逃れることはできないのだと、しっかりと認識するのです。
 そうして、その縄が許す範囲内で楽しく過ごす工夫をします。縄が許す範囲を超えて、その向こうに行きたいと思ってはいけません。そんなことを考えると、「繋驢橛」になってしまいます。
 そうなんです、たとえばがんになったときを考えてください。ともかくその人は、がんという病気の杭に繋がれてしまったのです。その縄をほどきたいと思えば、「繋驢橛」になります。ぐるぐる杭の周りを回って、自縄自縛になります。そして悶々(もんもん)とした日々を送らねばなりません。
 でも、がん患者のまま、できることはいっぱいあるはずです。その縄の範囲内で、できることを楽しめばいいのです。
 わたしたちの悩み・苦しみの大部分は、思うがままにならないことを思うがままにしようとすることから起きています。その悩み・苦しみを克服しようとする努力は、だいたいにおいて自縄自縛の状態に自己を追い込むことになっています。思うがままにならないことをは、思うがままにならないことだと「明らめること」が大事なことではないでしょうか………。

カット・酒谷 加奈

ページの先頭へ戻る