天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第51号

「一隅を照らす運動」40周年中央大会を開催

 天台宗の基幹運動と言うべき「一隅を照らす運動」は平成二十一年に四十周年を迎える。高度経済成長期の昭和四十四年に同運動は発足した。生活は豊かになった反面、人心はすさみ、物欲にとらわれる傾向が現れ始めた時で、これを危惧した天台宗は伝教大師の「一隅を照らす」精神を掲げ、宗徒はもちろん全国の人々の間にこの運動を展開することとした。以来、地道な実践活動が続けられてきた。来る七月六日に開催される「四十周年中央大会」は、四十周年記念事業の一環として行われる。

 「一隅を照らす運動」は、信仰と実践により、一人ひとりが心豊かな人間となり、平和で明るい世の中を築いていこうという理念を基に昭和四十四年に発足した。以来、全国に教区本部や支部を組織し「一隅を照らす運動推進大会」の開催、会員の研修活動、社会福祉活動、地球救援事業(募金活動や現地派遣)など、様々な実践活動を行ってきた。四十年にわたる実践活動は、確実に運動理念を浸透させ、「一隅を照らす」という言葉も一般社会の中で定着してきている。
 しかしこの四十年、世の中の移り変わりは激しいものがあり、社会の様相は、同運動発足当初とかなり異なったものとなっている。経済分野を始めとする社会構造の変化は価値観の変遷を呼び、小は家族関係という単位から、地域社会、さらには国家という単位まで「共生」という共同体の形は大きな変化を見せている。
 現代の日本の具体的な変化は様々な問題として現れてきている。相互扶助的な地域社会の崩壊、格差社会の顕現、少子高齢化問題など、経済発展を遂げた「成熟国家」としての悩みである。こうした問題に対し、一隅を照らす運動としても考えていかなければならない時代に入っている。
 そして問題は一国に留まらなくなってきている。社会主義国の崩壊や、崩壊に至らなくても急激な経済市場主義への移行による経済のグローバル化が様々な問題を生み出している。例えば、一国の単位に収まらず、多国間にわたる問題として「環境問題」がある。身近なゴミ問題から地球温暖化問題まで、最早一刻の猶予を許さない程になっている。
 四十年前には顕在化しなかったこうした問題に「一隅を照らす運動」は、どう取り組むのか。四十周年大会では、問題にスポットを当て、自然を汚し続ける人間が、全ての生き物と共に生きていくにはどうすればよいのかを探る。
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中国・内モンゴルで植樹
 秋吉文隆一隅を照らす総本部長は、去る五月六日より十一日までの日程でNPO法人「草原の風」が主催する中国・内モンゴル植林ツアーに参加、砂漠で実際に植樹すると共に(写真)、「一隅を照らす運動」として取り組めないか、現地調査を行った。
 砂漠化の激しい内モンゴル地域の実情を視察すると共に、同地区の経済的困窮住民の子どもへの教育援助についても検討していくことを考えている。  

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

 今思えば、僕には独りで歩くという宿命があったんやと思う。
 亡くなったかみさんのことは三年間ぐらい、頭の中にちらついていたけれど三年経ったらお山の修行のことでいっぱいになって、これっぽっちも思い出さなくなってしもうて。
 とうとう何年何月に死んだのかも忘れてしもうたね。
 薄情というのか………。けど毎日、拝んでる。
 毎日がかみさんの法要の日と思うているから、赦してくれるかな。
                         酒井雄哉大阿闍梨

高倉健著「旅の途中で」(新潮文庫)より

 酒井雄哉大阿闍梨は比叡山の荒行である千日回峰行を、二度も満行された大阿闍梨です。
 高倉健さんは、同書の対談で「酒井さんは、千日が終わって、二千日が終わって。信長の焼き討ち以来何百年経ったんでしょうか。酒井さんを入れてたった三人しかやってらっしゃらない」と驚嘆と賞賛を惜しんでいません。
 しかし、酒井大阿闍梨が比叡山に入るまでの、俗人時代の生活は「落第生」だったと自ら語られています。
 しょっちゅう仕事を変え「しまいには、かみさんも愛想を尽かしたのか、自ら命を絶ってしもうた。その時は辛うてね」。
 酒井阿闍梨は、何も考えずに歩きだします。そこに二つに分かれた道がありました。右は友達の家、左はお山(比叡山)に通じる道でした。
 今、多くの人が酒井大阿闍梨の姿や「今日の自分は今日で終わり。一日一生」という言葉に「生きる勇気」を見いだしています。
 奥様の自死によって「この世の瀬戸際まで追い込まれた」人は、命をかけた修行をすることで新しい道を得られました。

鬼手仏心

「バイオエネルギー」  天台宗出版室長 谷 晃昭

 
 バイオエネルギーの利用が世界的規模で模索され、一部ではかなり実用化されてきている。
 石化エネルギーの枯渇と、環境汚染が深刻化する中で、代替えエネルギーを考えるとき、安全で供給が継続的な資源として植物を材料とするバイオエネルギーに可能性を見いだすのは素人の私でも分かる理屈である。特に石化エネルギーを資源として持たない我が国は、国家プロジェクトとして取り組む価値のある事業ではなかろうか。
 聞くところでは、バイオエネルギーの実用化が報道された途端に、家畜飼料などが高騰し、連鎖的に鶏卵が値上げされ、マヨネーズが値上がりするのだという。今後エネルギーのバイオ化が進めば、ことはマヨネーズに止まることなく、穀物全般の供給システムに影響がでてくることになり、家畜飼料だけでなく、人間の食生活を左右する事態にも進みかねない。特に食糧の大部分を海外に頼っている我が国ではその影響は深刻であろう。
 現在、我が国が輸入している食糧は、自前の農産物より安価かもしれないが、はたしていつまでこの情況が続くのか、見通しは甘くはないはずだ。
 そんな気持ちでふるさとの田園を眺めると、雑草の生えた休耕地ばかりが目につく。数年前は美しい田畑であった場所が工場地にかわっていたりする。作物は手のかかる高級ブランド野菜や、園芸野菜が人気で季節と関係なしに何でも作っている。基本的な穀物である米や小麦などは主役の地位から降りてしまっているのか。勿論これは生産者の責任ではなく、このような農業の構造を作った政治の責任である。ともあれ、バイオエネルギー事情は日本の弱点を明らかにしてくれた。

仏教の散歩道

不完全な人間

 宗教とは何か? いつもそのことを考えています。
 世界にはいろいろな宗教があります。そのさまざまな宗教に共通する特色は何でしょうか? その宗教の共通点をうまく捉えることができれば、宗教の定義ができるわけです。だが、多くの宗教学者が宗教の定義を試みていますが、みんなが納得する定義はできていません。それゆえ、現在のところ、宗教学者の数だけの定義があると言われています。
 ところで、わたしは最近、ふとこんなふうに考えました。世界にはさまざまな宗教がありますが、そのうちのほとんどの宗教が教えているのは、
-人間というものは、弱くて、愚かで、不完全な存在である-
 ということではないでしょうか。つまり、人間は絶対的な存在ではないのです。「絶対」といえるのは仏や神だけです。
 だが、ご存じのように現代日本人は総じて「無宗教」です。ほとんどの人が、「わたしは宗教を信じていません」と発言します。ということは、裏を返せば、人間が弱くて、無力で、愚かで、不完全な存在であると思っていないことになります。むしろその逆に、人間は賢く、完全な存在でなければならないと思っているのです。無宗教ということは、そういう信念を持っていることになります。
 だから、世の中全体が不寛容な社会になったのです。
 学校教育において、人間は完全でなければならないと教えられるから、不完全な人間、ちょっとした過ちを犯した人間に対して執拗に攻撃を加えます。
「あの人はいけない人だ」と、みんなで寄ってたかっていじめるのです。いじめている自分だって不完全な人間なのに、自分に関しては採点基準が甘くなり、
 〈そりゃあ、わたしだっていけないところはありますよ。でもね、わたしはそのいけないところをなくすように努力しているのだから…〉
 と、自己弁護するのです。そして、他人を非難します。ともあれ、現代日本人は他人の過ちを赦せない、狭量な人間になりました。
 では、どうすればよいのでしょうか?
 わたしは、いまこそ仏教者が真の仏教の教えを語るべきだと思います。そして、真の仏教の教えとは、完全な人間になるように努力しなさいと説くことではありません。そうではなくて、人間はみんな弱くて、愚かで、不完全な存在なんだよ。欠点だらけの人間なんだ。だから、みんなお互いに赦し合って生きなければならない。自分も不完全な人間だから多くの他人に迷惑をかけている。だから、あなたは他人から受ける迷惑を耐え忍びなさい。そう教えるのが真の仏教の教えを説くことになります。
 わたしは最近、そのように考えています。

カット・酒谷 加奈

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