天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第43号

第20回世界宗教者平和の祈りの集い イタリア・アッシジ

 第二十回世界平和祈りの集いがイタリア・アッシジにおいて九月五、六日に開催され、天台宗では、杉谷義純天台座主特命代表を始めとする代表団を派遣した。祈りの集いでは、天台宗代表が開会式やパネルにおいて世界平和実現のためにスピーチを行った。代表団は、七日にはバチカンにおいてローマ教皇・ベネディクト十六世聖下と謁見し明年八月に開催される「比叡山宗教サミット二十周年世界平和祈りの集い」への招請状を手渡した。

 天台宗からは、杉谷特命代表ほか、濱中光礼宗務総長、森定慈芳延暦寺副執行、西郊良光前宗務総長、壬生照道法人部長ら二十五名が出席した。
 開会式は四日「世界平和のために・宗教、文化の対話」と題して、アッシジのテアトロ・リリックで行われ、世界各国の宗教代表者とクラウディオ・リッチアッシジ市長はじめ一般市民約一万名が参加した。
 杉谷特命代表は仏教を代表して挨拶し「宗教は理想ばかり説いているという批判に対し、宗教が説くことは未来のあるべき現実であることを示していこう」と述べた。
 このあと参加者は五日まで、十六の各分科会に分かれて、世界平和に向けての対話を行った。
濱中宗務総長は「アジアの宗教・宗教間の対話と平和への情熱」の分科会で「『和をもって貴しとなす』『己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり』の二つが日本仏教、日本文化の精神源流である。この二つの精神を敷衍し、実践することが、世界平和実現へ向けての最善、最短の道であると確信する」と発言し、大きな拍手を浴びた。
 五日の夕刻には世界の宗教者たちがそれぞれに祈り、礼拝の場所からサン・フランセスコ聖堂へ「平和の行進」を行った。
 サン・フランセスコ聖堂前に設けられた閉会式特設会場には二万人近い人々が集い「私たちの希望は平和な世界の到来です。対話により失われるものは何もなく、平和は総てを可能にするのです。決して戦争が繰り返されませんように」という平和宣言が採択され、各宗教代表者は平和の署名を行った

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 「薩摩と比叡山」~仏教音楽と講演~

 来る十月十一日に鹿児島市において「薩摩と比叡山」と題する仏教音楽と講演が開催される。
 開宗千二百年慶讃大法会・三県特別布教の一環として開かれるこの催しでは「天台声明」や、盲僧たちによって伝えられ演奏されてきた鹿児島県無形文化財の「妙音十二楽」、そして宮崎県無形文化財に指定されている永田法順師による「盲僧琵琶」など仏教音楽と、薩摩と比叡山の歴史的な関係についての特別講演が行われる。
 また、ミャンマーの子どもたちを支援するために、現在、学校建設運動を進めている地元、南泉院住職宮下亮善師の講演もあり、天台僧の鹿児島における活動をも紹介する催しとなっている。(四、五面に関連記事)
 ※会場=鹿児島サンロイヤルホテル
十月十一日・午後一時半~「天台声明」、同二時~「特別講演」講師=原口泉鹿児島大学教授、同三時~「妙音十二楽」、同三時半~「盲僧琵琶」、同四時~「講演」講師=宮下亮善南泉院住職
 ※問い合わせ先・天台宗務庁大法会事務局(代077-579-0022)

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

なにもそうかたをつけたがらなくてもいいのではないか
なにか得体の知れないものがあり
なんということなしにひとりでにそうなってしまう
というのでいいのではないか
咲いたら花だった 
吹いたら風だった
それでいいではないか

高橋元吉 「なにもそうかたを…」より

 「白」でなければ「黒」という人が増えています。
 人生のほとんどは白でもなければ、黒でもない、あえていうなら「灰色」の中にあるような気がします。それは「融通」ということです。融通の利かない社会は、遊びのないハンドルのようなもので事故が起きがちです。なによりぎくしゃくしています。
 何でもかんでも「イエスかノーか」と迫るのが、グローバルスタンダードとか何とかいわれても「そんな息苦しい世界に生きたくないな」と思います。
 大体「カタをつけてやる」などと興奮しても、あとからゆっくり考えると(何をあんなに息巻いていたのか)と赤面することの方が多いではありませんか。
 お釈迦様は「十無記」といって、宇宙にも始まりがあって終わりも有るのか、霊魂と肉体は同じであるのか、死後に精神は存続するのか等々の十の質問にお答えになりませんでした(無記)。つまり「カタをつけられなかった」のです。
 何か人知を超えたものがあって、そうなっている、それでいいではないか、ということではないでしょうか。
 法華経の神力品には「法華経を授持する者は、風のように空中を吹き渡って、何事にもさまたげられない」とあります。
 私たちは、仏さまの慈悲心に包まれて生かされている、「咲いたら花だった」「吹いたら風だった」。それでいいのではありませんか。

鬼手仏心

「酒について」  天台宗出版室長 谷 晃昭 

 
 最近酒を巡っていろいろな事件が報道されている。
 飲酒運転の上、人身死亡事故を起こすなど、絶対にしてはならないことである。「飲んだら乗るな。乗る人には飲ませるな。」これは酒飲み同士絶対守るべきルールである。
 しかし、古来より酒は日本だけでなく世界の歴史文化の中で生活に深く関わって存在してきた。神に供える「御神酒」や、聖なるワインなど宗教上の重要なアイテムでもある。
 悲しいにつけ、嬉しいにつけ、杯を手にし、雪月花と変わりゆく四季を愛でながらの一献もまた豊かな私たちの文化である。
 このように人間と一緒に仲良く歩いてきた酒ではあるが、反面、飲み方によっては酒害も少なくない。
 アルコールは内臓で吸収され血液によって脳に運ばれる。そしてその麻酔作用で脳細胞を麻痺させる。これが「酔っぱらう」ということで、脳内のアルコール濃度でほろ酔いから酩酊、泥酔状態となっていく。
 最初上機嫌で飲み出した人が次第に呂律が怪しくなり、そのうち抑制機能が麻痺し本能が活躍しだして人格が変貌するのもこのためである。更に麻痺が生命維持を司る延髄にまですすめば呼吸機能が停止し死亡に至ることもある。また、習慣性も強く依存症に陥るのもやっかいな問題の一つである。
 人種的にも酒に強い弱いがあるそうで、概してモンゴロイド系は酒に弱い人種だそうだ。中には遺伝的にまったくアルコールを分解できない体質の人もいるそうで、そういう人にとって酒の無理強いは拷問に近い。
 このように酒は功罪相半ばするのであるが、酒の美味くなる時季、ルールを守ってほどほどに楽しむことが一番である。

仏教の散歩道

「中道を歩む」  ひろ さちや

 詩人であり、彫刻家であった高村光太郎(一八八三~一九五六)の詩集『道程』には、
 《僕の前に道はない。僕のうしろに道ができる》
 といった、有名な一節があります。いろいろな解釈ができそうな言葉ですが、わたしは仏教の立場で考えてみたいのです。 じつは、世間一般では、目標に向かってまっしぐらに進むことがいいことのように思われています。そのことは、「精神一到、何事か成らざらん」といった言葉にも表れています。人々は、少々の困難でくじけてはならない。努力すれば必ず成功する。そんなふうに考えているのです。
 でも、本当にそうでしょうか…?たいていの場合、目標に向かって歩むのはそう簡単ではありません。さまざまな障害にぶつかるでしょう。それを強引にゴーイング・マイ・ウエイ(わが道を行く)と歩んで行けば、他人を傷つけ、さらには自分自身をも傷つけるはめになります。
 だから、目標に向かって猪突猛進する、そういう生き方を仏教は嫌います。目標に執着してはならないー。仏教はそのように教えるのです。
 わたしたちは、〈◎ご縁◎〉の世界に生きているのです。さまざまな縁があります。いい縁もあれば、悪い縁もあります。腐れ縁だってあるのです。いい縁に恵まれて、目標に向かって進めるときは、進むとよい。けれども、縁が悪いのに強引に猛進する必要はありません。そういうときは、じっと待っていればよい。場合によっては後退するほうがよいのです。
 仏教は、ゆったりと歩むことを教えています。それが
 -中道- 
 なんです。中道というのは、ゆったりと、のんびりと、そして楽しく歩むことです。歯を食い縛って、悲壮な覚悟で一心不乱に歩み続ける、そのような歩みはよくない。 
 そうですね、散歩を思い出してください。散歩のとき、誰が悲壮感をただよわせて歩きますか。みんなゆったりと歩きますね。
 人生の歩みも、その要領です。自分のことばかり考えずに、周囲とのご縁を大事にしながら、ゆったりと、楽しみながら歩きます。無理をしてはいけません。もしも周りに急いでいる人がいれば、
 「お先にどうぞ」
 と譲ってあげましょう。それでちっとも損をするわけではありません。なにせこちらは、人生を楽しみながらゆったりと生きているのですから。
 そうして人生を歩き終わったところで、振り返って眺めてみれば、自分の歩いたうしろに一本の道が出来ています。
 〈ああ、自分はこんな道を歩いてきたんだなあ…〉
 としみじみと思える、そういう人生の歩みをしたいものです。そして、それが仏教の教える中道なんですよ。
 

カット・酒谷 加奈

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