天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第7号

仏道とは--正しく生きると見つけたり
 京都・三十三間堂の本坊である妙法院門跡の第五十一世門主に就任が決まった。
 早稲田大学名誉教授、文学博士、天台宗勧学と近寄りがたい肩書きだが、話し始めると、いたってざっくばらんな性格である。
 栃木県日光市生まれ、日光輪王寺一山の照尊院住職だが、大学勤めの関係で東京暮らしが長かった。大学紛争華やかな頃は、早稲田大学文学部の教務主任(のちに学部長)だった。全学連との団交で、吊し上げられ、もみくちゃにされながらも「できないことは、できない」と突っぱねる。当時は、五十歳。その時の硬骨漢ぶりは、今の温厚な風貌からはなかなか想像出来ない。
 「学生運動が反面教師となって、一生懸命に勉強する若い人たちが出てきた。その意味では価値があったかもしれない」という根っからの学窓の人である。
 妙法院には福井康順師(元大正大学学長)、大久保良順師(同)、そして今回の菅原門主と学問の世界からの就任が続く。「そのことが、研究者の励みとなれば」という言葉の裏には、必ずしも学問を志す人々が恵まれていないという義憤がある。自身も三十五歳までは、身分も、経済も不安定な非常勤講師だった。
 「長女が、小学校に入学する年に、早稲田の専任講師になって、やっと生活が安定した。家族には、本当に苦労をかけた」。

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 「神仏習合」の権威である。日光そのものが、神と仏の同居地である。子どもの頃から、その世界を見て育った。「一般的に、ひとつの宗教中に、他の宗教が入ってくると、追いだそうとするのが普通。それは、今の世界を見れば一目瞭然です。しかし日本は神と仏が一緒になって信仰されている」。
 興味を覚え、調査研究を始めたが、資料はあまりない。神仏習合の宝庫である日光でも、それまで研究した人はいなかった。
 「戦前は、そんなことを軽々に言えなかった。徳川家康を、天海大僧正は『東照大権現』として日光に祀る。東照大権現という名は、東に照る、すなわち太陽のことだと思いついた。太陽は動いて天の真上に来る、すると天照ということになる。天照大神は天皇家の祖先だから、天海は遠慮して東照とつけてはいるが、腹の底では天皇家に代わって徳川家が天下を支配するという意味を持たせている。
 そのような説を発表したのが昭和三十年。終戦後十年経っていましたが、それでも怖かった」。

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 妙法院での活動はどのように展開されるのか。
 「宗門の発展と教学の振興ということになります。若い研究者が安心して勉強できる環境を整えたい。また私は、仏者というのは、正しく生きるということだと思っている。他の人から非難されないよう心がけてゆきたい」。
 日光の自妨・照専院は寛永十三年の建立になる。東照宮を尊ぶという意味で天海大僧正が命名した。日本で、ただ一つの寺名である。今、この由緒ある寺院を譲り、京都への引っ越しに追われている。
 「京都は歴史の宝庫だから、研究もしたいのですが、時間があるかどうか。京都の底冷えも心配です」。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

 「あなたおいくつですか」と聞くと「満なんばです」と答える。昔の日本では「数え年」で言うておったのですが (略) まあ、世界の通例というか、西洋の習慣に合わせてそうしてしまった。 ほんと言うと、これは大きな間違いなのです。

「大愚のすすめ」山田恵諦著・大和出版

 これは、山田座主が折にふれ、お話になったことです。
 満年齢で数えるのは、西洋の考えかたである、それは、向こうは狩猟民族であるから、獲物と命がけで戦って、自分のものとするまでは確実ではない-。だから、人間も生まれて顔を見てから、初めて年齢を数え始めるのである。それに対して、農耕民族である私たちは、妊娠したとき、すなわち芽が出たときから数え始めるのだということを、常々説かれていました。
 いわば、自然と人間が対立関係にあって、戦い取るという西洋の思想に対して、自然の道理にかなって、天地自然からあらゆるものを得させて頂いているのだという東洋の考え方です。
 生まれた時が、零歳なのではない、母の胎内に宿ったときから人間なのだから、その時から数え始めるというのが、自然の摂理なのです。
 生まれる前ではあっても、芽を出した段階で人間と認められるのです。それは、人間の尊厳を深く意識することでもあります。

鬼手仏心

夜と霧   天台宗宗務総長 西郊良光

 世界宗教者平和の祈りの集いがドイツのアーヘンで開かれた。
 アーヘンはベルギー国境に近い美しい街である。
 祈りに参加しながら、私は、昨年比叡山の「イスラムとの対話集会」でユダヤ教のアルバート・フリードランダー師が演説された内容を思い出した。
 フリードランダー師は、フランクルという精神科医に言及された。フランクルとは、奇跡的にアウシユビツツから生還したヴイクトール・フランクル医師のことである。フランクル医師は、その体験を『夜と霧』という著作に記した。個人の視点から語られるアウシュビッツの現実は、事実が淡々と記されている分、いっそう鬼気迫るものがある。それは、人間がいかに残酷になれるかという記録でもある。
 夜と霧とは、夜の闇に乗じ、霧にまぎれて人々がいずこともなく連れ去られたことに由来する。昨年新訳が出た。訳者の池田香代子さんは言う。「受難の民は度を超して攻撃的になることがあるという。それを地でいくのが、二十一世紀初頭のイスラエルであるような気がしてならない。フランクルの世代が断ち切ろうとして果たせなかった悪の連鎖に終わりをもたらす叡智が、今、私たちに求められている」。
 粛然とする。
 今、世界はイスラエルばかりではなく、多くの国が自らを「受難の民」と感じているような気がする。報復に次ぐ報復という悪の連.鎖を断ち切る叡智を求めて、祈り、行動したい。

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