天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第31号

慶讃大法要期間始まる(10月1日開闢~10月31日結願)
法要一色に染まる比叡山

 天台宗開宗千二百年慶讃大法会の慶讃大法要が十月一日から、三十一日までの一カ月間比叡山延暦寺根本中堂で厳修される。開宗千二百年を記念して、天台宗では平成十五年度から檀信徒総授戒運動を始め、数々の報恩行事を展開してきたが、今回の大法要は、そのクライマックスともいうべきもの。天台宗はもちろん、各仏教宗派、教団による開宗千二百年慶讃法要が連日執り行われ、また日本の伝統芸能が奉納されるなど、期間中比叡山は、宗祖伝教大師への報恩一色に染まっている。

 千二百年前の延暦二十五(八〇六)年一月二十六日、伝教大師の奏上に応えて、桓武天皇は、年分度者二人を勅許された。この時天台宗は、国家に認定され開宗したのである。
 天台宗では、平成十八年一月二十六日に開宗千二百年を迎えるために「あなたの中の仏に会いに」をスローガンとして総授戒・総登山運動に取り組んできた。
 十月一日の開宗千二百年慶讃大法要開闢は、全国の天台宗教区から集った百人の僧侶と百人の檀信徒による「百僧百味法要」にて厳かに幕を開けた。
 百味とは、百種類の供物をみ仏にお供えするものである。
 同日午後からは、玄清法流による玄清琵琶、陸奥教区・毛越寺による延年の舞、瀬戸内寂聴師作・茂山一門による「居眠り大黒」などの伝統芸能の奉納が行われた。(大法要期間中の詳細日程は天台宗公式ホームページをご覧下さい)。
 西郊良光天台宗宗務総長は「天台宗の開宗慶讃にとどまらず、比叡山にできるだけ多くの仏教宗派、教団においで頂き、それぞれの更なる発展と精進を共に祈誓し、浄仏国土建設、社会浄化、人々の心の平安に資するものとしたい」と述べた。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

 どんな不幸な人間にも、それなりに「花の時代」といえる時期があるのではないか、と私は思う。たとえその花が他人から見れば取るに足らないほどささやかな、忘れな草であろうとタンポポであろうと、花は花で変わりはない。

『わたしの渡世日記』  高峰秀子 文春文庫

 一世代前の話です。
 ある老女が亡くなった時、遺品の中から布で大切にくるまれた小さな独楽が出てきました。遺された者達にはどんないわれのある品かは解りませんでしたが、少女時代からの友達だった女性には解りました。「この独楽のお陰で生きてこれたのよ」と打ち明けられたことがあったからです。
 亡くなった老女は、貧しい家に生まれ、幼い頃に奉公に出ました。奉公先の商家には、同じ年頃の男の子がいました。何かと彼女を庇ってくれ、彼といる時が唯一安らぎの時でした。彼は次男であり、他家に養子に行くことになりました。その時、いつも使っていた独楽を彼女にくれたのです。彼は程なく、養子先で病気で亡くなりました。誰の目からも、男の子がさほど、奉公人の娘に心を向けていたとは思えませんでした。真実も分りません。ですが、貰った少女にはたった一つの花だったのでしょう。彼女の苦労続きの人生を支え続けたのがこの「独楽」だったのは確かです。

鬼手仏心

『秋』  天台宗出版室長 工藤 秀和   

 
 昨年、紅葉を見に京都嵯峨野の寺院に出かけました。
 あいにく、少し時季が早かったようで、拝観受付の方から「もう、一週間ほど遅ければ、お山から降りてこられましたのに」と言われました。
 全山が紅葉することを「お山から降りてくる」と表現されたのです。
 なかなかに、味わい深い言葉だと思いました。そのお寺の方は、紅葉も、ただ木々が色づくというものではなく、人知を超えたはからいによって為されると思っておられるのです。神々しいニュアンスが伝わってきました。
 そういえば、秋の季語に「お山洗」というのがあるのを思い出しました。夏の終わりに富士山麓に降る雨のことを、こう表現するのだそうです。夏の暑さと埃で汚れた富士山を雨が洗い流すのです。初冠雪の平均日は9月27日といいますから、お山が洗われたあとに、すぐ初雪が降るのです。まことに爽快、雄大です。
 これらに共通するのは「敬虔」です。自然には神仏が宿り、それらを敬うことによって日本の文化は潤いを持ち、発展してきました。
 最近のデジタル進歩は、生活に利便性をもたらせましたが、温かみや安らぎとは別の世界へ我々を連れ去ろうとしています。
 今の芸術や文化にしても、どこか原色のギラギラ感を拭えないのは、神仏への敬虔さを失ったせいだと見るのは、ひが目でしょうか。
 数年前、知人の一家とお月見をしたことがあります。その時に「お坊さん、今日のお月さまは、あまり綺麗なので、思わず拝んでしまいました」と言った娘さんがいて、何となく安心したことを思い出しました。

仏教の散歩道

気兼ねをするな!

 お寺の本堂で、ごろりと横になって昼寝をしている男がいました。暑い夏ですが、本堂はわりと涼しいのです。
 そこに住職さんが来て、男を叱ります。
 「そんな行儀の悪い恰好をしてはいかん。ほとけさまに尻を向けるなんて、罰が当るぞ」
 男は和尚さんに向かって言います。
 「ですが、和尚さん、『法華経』には、われわれはみんな仏子だ、と書いてあるそうですね」
 「ああ、それはその通りだよ」
 「わたしたちはみんな仏子で、そしてお寺はほとけさまの家でしょう」
 「そうだよ。で、何が言いたいんだね」 
 「じゃあ、お寺は親の家です。子どもが親の家に来て、なんで気兼ねをする必要があるんです…?! そう言う和尚さんは、きっと継子なんでしょう…」
 みごとに和尚さんは、一本取られたわけですね。
   *     *
 そうなんです。わたしたちはみんな仏子です。ほとけの子です。そして、この世界はすべてほとけの世界です。お寺だけではありません。日本という国が、いやこの地球全体が仏国土です。
 《今、この三界は、皆、これ、わが有なり。その中の衆生は 悉くこれ吾が子なり》
 『法華経』の「譬喩品」にはそう書かれています。この宇宙そのものがほとけさまの家、すなわち親の家なんです。それが『法華経』の教えです。
 だとすればわたしたちは、この世界にあってなんの気兼ねもしないでいいのです。気兼ねをするなんて水臭いですよ。継子じゃないのだから、親の家にあって生きるのに、なんの気兼ねをする必要はありません。わたしはそれが『法華経』の教えだと思います。
 あるとき、わたしは引きこもりになった青年から、「どうしたらよいか?」と相談を受けました。「引きこもりになったのであれば、もうしばらく引きこもりを続けなさいよ」というのが、わたしの返答です。
 引きこもりは病気です。なにも好きで引きこもりになったのではありません。そして、「引きこもりをやめよ!」と言われて、すぐに、やめられるものでもないのです。ならば、しばらくは引きこもりを続けるよりほかない。そのことをわたしは言ったのです。
 それと同時に、引きこもりのなった人、病人だって仏子です。そしてこの世界はほとけの世界であり、仏子にとっては親の家なんです。親の家で生きていくのに、なにも世間の人に気兼ねする必要はないじゃありませんか。自分は引きこもりだから、世間の役に立っていないと思う必要はありません。そんな気兼ねはやめて、ほとけさまに甘えていればいい。それこそが『法華経』の教えだと思います。

カット・伊藤 梓

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