天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第208号

新型コロナウイルスの影響で延期や縮小
-祖師先徳鑽仰大法会「不滅の法灯 全国行脚」実施時期を再考-

 祖師先徳鑽仰大法会事務局は6月16日、宗務庁で大法会事務局会議を開き、新型コロナウイルス感染拡大を考慮し、伝教大師一千二百年大遠忌事業「不滅の法灯 全国行脚」の日程を一旦白紙とし、状況の推移を見て来春からの開始を目処に再考することを決定した。また教区法要並びに特別授戒会も令和3年4月以降に期間変更する。
「不滅の法灯 全国行脚」は、令和3年6月4日に迎える伝教大師一千二百年大遠忌の記念事業および「伝教大師最澄1200年魅力交流」の取り組みとして、大遠忌の機運醸成を図るため、全国各寺院とも連携した企画として耳目を集めていた。
 4月2日には延暦寺根本中堂で「分灯式」が営まれ、全国4地区へ4つの法灯が行脚する予定だったが、新型コロナウイルス感染拡大防止の観点から、当面二カ月程度の延期を決めていた。
 しかしながら、全国の緊急事態宣言は解除されるも、第2波、第3波の可能性、また宗議会と宗務所長会から延期の要望等もあり、当局側が協議。大法会事務局会議で「現段階での開始は困難」と判断した。
 なお、根本中堂で護持保管されていた四基の分灯された法灯は、7月1日14時から返灯のための法要を執り行う。
 教区法要並びに特別授戒会についても、同様の理由から来年4月以降に延期することを決めた。
 6月下旬に宗議会議員と宗務所長らに文書を送付した他、天台宗公式ホームページで告知している。


-比叡山宗教サミット33周年「世界平和祈りの集い」規模縮小で開催-

 新型コロナウイルス感染症の感染拡大防止から、8月4日の比叡山宗教サミット33周年「世界平和祈りの集い」の式典は規模を縮小して開催されることとなった。
 比叡山宗教サミット「世界平和祈りの集い」は、昭和62年(1987)に開催されて以来、毎年宗教宗派を超えて比叡山に集い、世界の恒久平和実現のために協働することを確かめ合い、心からなる祈りを捧げてきた。
 しかし新型コロナウイルス感染症が世界的に流行する中、一堂に会して祈ることは困難な状況下にあると判断。比叡山延暦寺の「比叡山宗教サミット『世界平和祈りの集い』記念碑」前で、天台宗と延暦寺の役職員にて執り行うことを決めた。なお、当日の模様は動画共有サービス「YouTube」にてライブ動画を配信する。
 また午後三時三十分に合わせ、それぞれの場所で世界平和の実現と新型コロナウイルス感染症の早期終息への祈りを捧げ、平和の鐘を打ち鳴らしていただくよう、招待予定だった来賓や関係者に6月中に文書で通知した。
 ライブ動画および詳細については、天台宗公式ホームページ特設サイトより閲覧できる。
 同件についての問い合わせは、
http://www.tendai.or.jp/summit/index.html
天台宗国際平和宗教協力協会事務局(天台宗務庁内)077-579-0022

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね

太宰 治

 「私は、信じられている。私の命なぞは、問題ではない。死んでお詫び、などと気のいい事は言って居られぬ。私は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ。走れ!メロス。」
 長年多くの人に読まれてきた『走れメロス』。この話が作者太宰治の実体験から着想を得たこともまた有名な話でしょう。
 熱海へ滞在中に借金を重ね窮地に陥った太宰は、心配して様子を見に来た友人を身代わりに金策の為ひとり帰ります。しかし、いつまで経っても戻ってこない。痺れを切らした友人が借金取りと共に帰ると、別の友人宅で遊んでいる事がばれてしまいます。怒りを露わにする友人に対し、太宰がかけたのが今回の言葉です。ちなみに私事ではありますが、学生時代に提出課題の延長を直談判した際に、指導教授に言われた言葉でもあります。
 太宰の友人の立場からすればなんとも業腹なエピソードではありますが、笑い話だけで済ますには惜しい言葉のように思えます。
 小売店でのレジ対応、病院の診察、ネットショッピングでの商品発送など、私たちは日々の中でしばし待つ時間があります。時には対応の遅さに苛立つ事も少なくありません。そういったとき、待っているこちらが辛いのでしょうか、待たせている対応側が辛いのでしょうか。おそらくどちらも同じでしょう。アンガーコントロールではありませんが、そういう場面に出くわしたときに思い出してみるのも良いかもしれません。
 日常が戻りつつある現在ですが、災禍が通り過ぎた訳ではありません。
 「五臓が疲れているときは、ふいとあんな悪い夢を見るものだ。メロス、おまえの恥ではない。やはり、おまえは真の勇者だ。再び立って走れるようになったではないか。」
 世界が再び立って走り出す日を信じて。

鬼手仏心

小さな生命

 地方都市のある駅前でちょっと変わった場面に出くわした。
 幼稚園児ぐらいの男の子が、ずっと下を向いたまま歩いているのだが、時折何かを避けるかのように進む方向が変わる。大人なら「ああ、酔っ払っているんだな」と思う光景である。
 当節、不審者と思われないか気にはなったが、こちらも時間に余裕があったので、その幼児に「何しているの」と聞いてみた。
 その幼児は「蟻(あり)を踏まないようにしてるの」との返事だ。そう言われて下を見ると、なるほど、あちらこちらに蟻が動いているのがわかった。
 四方に散っていく大人たちは、足元の蟻のことなど気にする人はいなかった。もちろんのこと、かくいう私もその一員である。
 と、そこで子ども時代の蟻に対する〝乱暴狼藉(らんぼうろうぜき)〟の光景を思い出した。
 子どもの時分、公園の地面で蟻が行列を作っているのを見て、仲間の子どもたちが踏んづけていたことだ。自分は踏みはしなかったが、その行為を咎める(とが)意識などは、さほどなかったように思う。さすがに年齢を重ねるとそんな〝殺戮(さつりく)〟は許せなくなったが。
 それにしても子ども時代における〝生命〟に対する思いや、優しさがあの男の子とは随分違っていたと感じ、ちょっとショックを覚えた。
 地球上では、人間は生き物の頂点に立っている。そのために、人間中心の思い上がった考えや見方に傾きがちである。だが、考えてみると、人間は動物や植物、微生物など多くの生命に支えられて生きているのだ。
 〝いかに小さな生命でも大切にすることが大事である〟。これは忘れるはずもないことであったが、今更ながらその意味を噛み締めた出来事であった。

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