天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第5号

親と子のコミュニケーション
- 四歳と十二歳 -
 酷い。長崎の幼稚園児誘拐・殺人事件では、言葉を失った。犠牲者のご冥福を心より祈りたい。
 私たちは、立て続けに引き起こされる子どもが加害者であり、被害者である事件に立ちすくんでいる。それは、日本という国のありようを揺さぶっているように思われる。
 事件原因のひとつに性的なものが指摘される。それなら、周囲に性情報を氾濫させて、幼児の時から、その影響を否応なく受けさせている社会のありようも問われなくてはならない。
 また、インターネットには「加害者」の写真と住所などが書き込まれ、三時間に1万人が閲覧したという。なんと浅ましい心根だろう。しかもそれが、全く別人だったいうではないか。烏滸の沙汰である。
 「保護者は市中引き回し」という現職大臣の発言は、やりきれないが、被害者とその家族の人権は、真剣に保護されるべきである。どうして、私たちの国はこんなに病んでしまったのか。
 このような事件が起きると、必ず「親子のコミュニケーションが不足だった」という論が出され、あわてて親子の対話が図られる。親子の間にすでに深い溝ができていても、事件に対応して、とりあえずキャッチボールやゲームをするのだという。そのことを否定はしない。が、それは対処療法である。根を直視しない限り、問題の解決にはならない。
 
 戦後の日本社会は、宗教を軽視して、自分のことしか考えない繁栄を築いてきた。その結果「思春期の子どもが、親を相手にしない」と嘆き「何を考えているのかわからない」とオロオロすることになったのではないか。かつて、親は、初物や珍しいものは、まず仏壇に供えた。そして、そのお下がりを子どもに与えた。一番最初に食べるのはご先祖様であり、それを頂くのだという生活が自然にあった。手を合わせる親の姿があり、子どもはそれを見て育った。
 仏壇のない家庭では、人を悲しませてはいけないと教え、そんなことをすれば、仏様が見ていると教えた。
 そのことを「親子のコミュニケーション」と呼ぶのではないか。

(宗務総長・西郊良光)

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

 ぼくは漫画のことを考えると、いつも希望がひろがります。少年の日(パーッとしない少年でしたが)あの夏の陽の強い海辺の砂の上に、棒を拾って何百と描いたポパイ、のらくろ(略)、波はとどろいて空はセルリアンブルーで、確かに希望の色でありました。

谷内六郎画集 文芸春秋社刊

 谷内六郎さんは、文藝春秋漫画賞を受賞した年に刊行された最初の画集の「あとがき」でこのように述べています。
 谷内さんは幼い時から貧しく、病弱で「パーッとしない少年」だったかもしれませんが、人々の心に残る絵をたくさん残されました。
 どの絵も懐かしく、温かいものです。
 太陽に焼かれながら、砂の上に、漫画を描いている少年には、未来の希望が見えていたのでしょう。ちょうど、私たちが子どもの頃、誰もがそうだったように。
 夏の照りつける太陽は、たとえ今が「パーッ」としなくても、そんな思いを吹き飛ばして、生きてゆく力を与えてくれるような気がします。

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