天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第159号

天台座主傳燈相乗式を厳かに奉修
森川猊下第二百五十七世の法燈をご継承になる

昨年12月14日に第二百五十七世天台座主に上任された森川宏映大僧正の「天台座主」が、去る5月11日、比叡山延暦寺根本中堂において厳かに執り行われた。森川座主猊下は、ご本尊薬師如来ご宝前において傳燈相承譜にご署名になり、宗祖伝教大師より連綿と伝わってきた法燈を継承された。同日午後には、京都市内のホテルにおいて、傳燈相承披露の集いが開催され、宗教界始め、政財界など各界から約750名の来賓が出席、森川座主猊下の法燈継承を祝った。

天台宗における最高の慶事と称される「傳燈相承式」は、霧に煙る総本山延暦寺根本中堂にて奉修された。同日、森川新天台座主を乗せたは、午前10時過ぎに控え所である書院を出発。新緑の映える延暦寺境内を根本中堂まで進んだ。
 根本中堂に入られた森川座主猊下は、登壇・焼香の後、荘厳なが堂内に響き渡る中、傳燈相承譜にご記帳された。(写真・上)
 これにより天台宗と延暦寺は第二百五十七世天台座主猊下を中心に新しい歴史を歩み始めることとなった。
 傳燈相承譜は、第一世天台座主義真和尚から第二百五十六世半田孝淳前座主までの歴代座主が就任の証しとして署名されている「座主血脈譜」である。なお、宗祖伝教大師ご真影前に供えられた八舌の鍵、勅封の鍵、五鈷、鉄散杖、一字金輪秘仏、といった宗祖ゆかりの秘法具や大乗戒伝授に欠かせない仏舎利も伝承され、ここに名実ともに法燈の継承がなされた。
 古式に則り滞りなく儀式を修された森川座主猊下は、天台座主として宗徒に「諭示」を発せられた。(「諭示」は3
面に全文を掲載)
 この後、天台宗を代表して木ノ下寂俊宗務総長が法燈継承を祝し「時あたかも天台宗は、祖師先徳鑽仰大法会の聖諱を迎え、宗を挙げて『一隅を照らす』道心を全国に浸透させようと致しております。このような重大なに当たり、森川座主猊下のご教導を賜りまして大法会を執行できますこと真に無上の喜びであり、宗徒を代表致しまして衷心より感謝申し上げる次第で御座います」と挨拶、傳燈相承式は滞りなく執り行われた。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

 僕は、きれいな桜を長く見続けることができません。
それは、桜の美しさがわからないからではありません。
桜を見ていると、何だか胸がいっぱいになってしまうのです。

「あるがままに自閉症です」東田直樹

 東田さんは現在23歳。小学3年生で自閉症と診断されました。2007年に出版された『自閉症の僕が飛び跳ねる理由』は、イギリスでの出版を皮切りにアメリカ、カナダで続々と出版され10万部を突破。現在20カ国で翻訳されています。
 自閉症の人は他人とのコミュニケーションがうまくとれません。人の表情から喜怒哀楽を判断したりすることが難しく、相手に対して適切な態度をとることができません。
 重度の自閉症である東田さんは言葉を話せません。会話や執筆活動はパソコンおよび文字盤ポインティングを使って行っています。東田さんの意志と身体はうまく連携がとれず、東田さんの意志とは関係なく、突然大声を上げてしまったり、身体が飛び跳ねてしまったりするそうです。
 そんな東田さんは一見不可解な行動をする人に見えてしまうかもしれません。しかし、彼の豊かな感性で書かれた本は今まで理解しにくかった自閉症の内面をはっきりと理解できる、と世界中の自閉症の子どもを持つ親や福祉・教育関係者を中心に驚きと感動をもって迎えられました。
 東田さんが18歳の時の言葉を綴ったこの文章は、「繰り返す波のように、心がざわざわとかき乱されてしまいます。その理由は、感動しているせいなのか、居心地の悪さからくるものなのか、自分でもよくわかりません。わかっているのは、僕が桜を大好きだということです」と後に続きます。普通の人が恋する人に対する気持ちと似ている気がする、といいます。自身は人に恋をしたことがなくても、「恋」というものがそういうものではないかと想像し、私たちの「恋」という思いを、れなくまっすぐに表現しているかのようです。
 他人と関わることが難しい東田さんの、桜への無垢な憧憬が胸を打ちます。

鬼手仏心

災害支援の第一歩

 四月十四日の前震から始まった熊本地方を中心とした大地震は、本震が追い打ちとなって大災害をもたらし、未だに余震が収まらないでいる。
 災害を受けた地域の人たちの心労は如何ばかりかと察する。
 日々の中で、とくに私たち人間の生きる源となる「水」と生活を支える「電力」は欠くことができない。
 私は、十七年前に起きた阪神淡路大震災のおり、給水支援に関わった自治体の支援活動に参加した経験がある。当時は、今日のようにボランティア活動があまりなかった。あの震災から、ボランティア活動が本格的に始まったといわれている。
 給水車と共に向かった先は芦屋市である。地震により崩壊した家屋や、散乱した瓦礫で塞がれた道路を掻き分けながら、辿り着いたのは、すでに暗闇の市役所であった。毛布にくるまれて夜明けを待ち、給水支援をしたことが、いま頭をよぎる。
 そこには、老若を問わず待ち並ぶ人たちがあったが、誰も笑顔がなかった。
 今回の熊本大震災で話題となったのが「災害弱者」という人たちであった。
 精神的ショックやストレスは子どもに様々な障害をもたらす。もちろんこのことは成人、特に老人にも当てはまる。災害地で必要なものは、物的支援と共に「心のケア」特に「トラウマケア」である。PTSD(心的外傷後ストレス障害)によって不安感を呼び覚ましたり、うつ的症状に陥った人へのケアである。余震の絶えない今も、トラウマケアが人的支援となって、心の安定と笑顔が戻る日々になることを願うものである。
 仏の教えに、「共生」(ともいき)という言葉がある。被災地を訪れ「がんばって!」の言葉でなく「みんな一緒」という「心のつながり」が支援の一歩といえないだろうか。

仏教の散歩道

別の光色を加えず

曹洞宗の開祖である道元(一二〇〇-五三)の『正法眼蔵』(「唯物与仏」の巻)に、ちょっといい言葉があります。
 《はなにも月にも今ひとつの光色をおもひかさねず》
 というものです。しかし、これだけでは何を言っているかよく分かりませんから、その前後のところを拙訳で紹介します。
 《たとえば人と会っても、その人のあるべき姿を考えず、花や月を見ても、そこに別の光や色を付け加えず、春はただ春ながらの心、秋は秋ながらの良さ/悪さがあり、それ以外のありようがないのである》(ひろさちや編訳『新訳・正法眼蔵』PHP研究所より)
 わたしたちは花や月を見るとき、そこに別の光や色を付け加えず、ただあるがままに見ればよい、と道元は言うのです。すなわち、花を見て、もう少しピンクの色が濃いほうが美しいと思い、月を見て、雲がなければいいのに……と思うのは、そこに別の光、色を加えているのです。
 いや、それよりも、他人を見るとき、
 〈この人は乱暴者だ。もっとおとなしければよいのに……〉
 と、その人のあるべき姿(理想の姿)をそこに付け加えて見ている、そのほうがもっと問題です。親がわが子に、
 〈もう少し学校の成績が良ければよいのに……〉
 と願うのも、わが子の上に別の人間を付け加えて見ているのです。
 そんなことをしてはならない。事物をあるがままに見るべきだ。そのように道元は言っています。
 つまり、わたしたちは他人を見るとき、そこに一種の「期待」をこめて見ているのです。〈かくあってほしい……〉というのも「期待」ですが、同様に〈かくあるべきだ〉というのも広い意味での「期待」です。しかも、自分自身に関しては、弁解、言訳を用意しています。だが他人に関しては、いっさい弁解や言訳なしに糺弾します。
 たとえば、わたしがスランプに陥って少し怠けているとき、〈いまはスランプだから仕方がないんだ〉と自分で自分を弁護しますが、他人に関してはその人がいかなる事情にあるかを一切考慮しないで、
 〈あいつはけしからん〉
 と断罪するのです。それはつまり、弁護人なしで、自分が検事と裁判長になってその人を裁いているわけです。
 まあ、ともかく、わたしたちは物事をあるがままに見るように訓練しましょうよ。病気になれば、ただ病気になっただけのことです。それを、病気を克服したいと思うから、その病気の上にあれこれの要素を付け加えて見てしまいます。そうすると病気のほかにあれこれの悩みまで背負いこむことになります。そういうことをするな!と、道元は言っているのだと思います。

カット・酒谷 加奈

ページの先頭へ戻る