天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第140号

第11回「一隅を照らす運動」群馬大会を開催

第11回「一隅を照らす運動」群馬大会が10月17日、富岡市かぶら文化ホールにおいて開催され、檀信徒ら約千名の参加者があった。今回の大会は、震災後初めて開催されたこともあり、テーマに「~つなげよう得がたきあらゆる生命~私たちは忘れない3・11」が掲げられた。未曽有の被害をもたらした東日本大震災発生から3年が経過したが、未だ悲しみは癒えず、復興もままならない状況を前に、参加者は、持続的に犠牲者追悼および被災者支援を行っていくことを、あらためて誓っていた。

 開式では、谷晃昭同教区本部長が主催者を代表して挨拶、続いて来賓として出席した木ノ下寂俊天台宗宗務総長及び横山照泰一隅を照らす運動総本部長が祝辞を述べた。
 また、谷本部長を導師に、同教区内寺院住職の出仕による「東日本大震災物故者慰霊復興祈願法要」が執り行われた。(写真)同法要は、被災した人々の苦しみや悲しみに少しでも寄り添い、心を同じくして震災被害を共に乗り越えて行こうという思いから営まれた。会場一杯の参加者も、犠牲者を追悼し、残された被災者の悲しみを我事として静かに頭を垂れていた。
 運動実践者への表彰が行われた後、記念講演では、岩手県平泉の山田俊和中尊寺貫首が「抜苦与楽(ばっくよらく) 普皆平等(ふかいびょうどう)」と題し講演。中尊寺落慶供養に際し、藤原清衡公が読み上げた『中尊寺建立供養願文』の鐘楼の段について、「鐘楼の大きな鐘の音が大地を動かすごとに、あまねく平等に、人々の苦しみを取り除き、楽しみを与え、そして、敵も味方もなく、故なくして死んだ者の霊魂を浄土に導きたい、と述べられている」と説明し、中尊寺創建の意に、仏教の大慈大悲の心が込められ、それが一隅を照らす運動の精神にも繋がっていると語り、参加者も熱心に聴き入っていた。
 また、群馬仏教青年会の被災地支援活動の報告もなされ、今回の大会での募金支援金の贈呈も行われた。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

 遠い道でもな / 大丈夫や 
 一歩ずつや / とちゅうに 
 花もさいているし / とりもなくし 
 わらびかて / とれるやろ

『遠い道』原田大助・「ぼくのきもち」(クレヨンハウス刊)

 これは、石川県の養護学校の生徒であった一人の中学生(当時)の 詩です。 長い歳月、酸いも甘いも味わった人生の先達や、達観した老師の言葉ではありません。どこか優しい表情を浮かべ、これからの生き方を淡々と孫に説いているようなお爺さんの姿が想像されます。でも、中学生なんです、この言葉を記したのは。
 理屈めいた解説などもいらないでしょう。むしろ解説などつけたら、この詩に接した人の心に湧き上がってくる思いにタガをはめ、窮屈にさせるだけかもしれません。
 養護学校中等部教諭の山元加津子さんは、転校してきた原田大助君に出会います。山元さんは、大助君が何気ない時につぶやく一つ一つの言葉の素晴らしさに気づきます。鋭い感受性、人をやんわりと包むあたたかさ。彼の言葉に大きく心を揺さぶられたのです。そして大助君は、山元さんの助けで詩や絵の創作を始めます。
 他の詩にもこんな言葉があります。「もうやめや やめとこ みんな笑っている方がええにきまってるやんか」「恐いなら そばにいたる 寒いなら そばにいたる いてほしいなら そばにいたる」「イライラするとな おなかのなかのな 深いとこがな 黒くなって かたくなって どんどんと きたなくなる気がする」。怒っている時、怖がっている時、苛立っている時、彼はこうつぶやくのです。
 秋には「秋の空気は つぶの すきまが 大きくみえる」、冬には「夜の雪は 人の心を のぞいている」とつぶやきます。そして人には「本当に 仲よくならんと 目なんて あわせられん」とハッとする一言。最後にこんな言葉を挙げておきます。これも説明など不要ですね。
 「僕が生まれたのには 理由がある 生まれるってことには みんな理由があるんや」。 

鬼手仏心

「祈り」 天台宗法人部長 長山慈信

 トウモロコシの穫り入れが終わったなだらかな丘陵が広がる、のどかな田園地帯を車窓から眺めながら、ベルギーの首都ブリュッセルから、『フランダースの犬』の舞台で知られるアントワープを訪れたのは9月6日。
 第一次世界大戦から百年が経ち、秋深まって菩提樹の葉陰に見える修道院の佇(たたず)まいは、敬虔なカトリック教徒の信者が集う聖母大聖堂とともに印象を深くした。
 「第28回世界宗教者平和の祈りの集い」に仏教代表者として参加させて頂いた。集いのテーマは「平和が未来への道」である。世界各地で繰り返される戦禍や自然災害の不安など、心の安寧を祈る願いは、参加した人達と握手した感触からわが胸を揺さぶった。
 「平和の祈り」の『祈り』について改めて考えさせられた。
 キリスト教などの一神教の宗教も東洋の宗教も、平和を祈る想いは一つであって、そこには生命の尊厳や自然への畏敬という宗教観に基づいて説かれるのが「愛」と「慈悲」である。
 非戦論を唱えたキリスト教信者であった内村鑑三は、「信仰が原因で、愛は結果である」と信仰に基づく話を残しているが、法華経信者の宮沢賢治と親交を深くしたのは、貧困や戦争(日露戦争)への思いが共鳴した、「雨ニモマケズ」の「デクノボウ」風の祈りであったのだろう。
 九州程の国土の広さの中で、たびたび繰り返されてきた戦場の舞台であったベルギーの地。古い城跡の残るアントワープでの「平和の祈り」。世界各地から集った人達の祈りは、会場の広場を埋め尽くした。アントワープに住む人達もまた同じ思いであったと推察する。握手をした人達の手の温もりはいまだ余韻を残す。

仏教の散歩道

世の中の改革

 仏教講演会で講演したあと、聴衆の質問に答えさせられることがあります。そのとき、よく問われる質問に、たとえば、
 「先生はがんばるな!と話されましたが、世の中の人がみんなのんびり怠けていたのでは、進歩・発展がなくなるのではありませんか……?」
 といったものがあります。あるいは、
 「死刑制度を廃止したら、兇悪(きょうあく)犯罪が増えて困るのではないでしょうか?」
 といったものです。そういう質問を聞くたびに、わたしは〈またか……〉と思い、暗澹(あんたん)たる気持ちにさせられます。
 死刑というのは、人を殺すことです。仏教は、人を殺してはいけないと教えています。にもかかわらず、殺人犯人を死刑にすることは、国家は人を殺してよいと認めていることになります。仏教者であれば、人を殺す死刑に反対するのは当然です。
 ところが、質問者は、死刑制度を廃止すると兇悪犯罪が増えることを憂えておられます。実際に死刑を廃止して殺人犯が増えるかどうかは知りません。かりに質問者の言う通りだとしても、その人は「世の中」の問題を考えておられるのです。「世の中」を良くするためには、仏教の教えは二の次だと言っておられるわけです。わたしは、そういう考え方に賛同できません。
 世の中のことは、政治家にまかしておけばいいのです。わたしは、わたしが仏教者としてどう生きるかだけを考えればよい。ですから、仏教者としては死刑に反対です。そして死刑制度を存続させている現在の政府には、次の選挙において絶対に一票を投じません。
 また、現在の日本人は、あまりにもがんばっています。がんばるということは、欲望を燃やし続けていることです。もっと出世がしたい。もっと金が欲しい。さまざまな欲望を持ち、それを充足させようとやっきになってがんばっています。
 だが、仏教の教えは、基本的に、
 -少欲知足-
 ですよ。あなたの欲望を少なくし、足るを知る心を持ちなさい。仏教はそう教えています。その教えを別の言葉で言えば、
 -がんばるな!-
 になります。わたしはそう考えています。
 ところが、質問者は、自分が仏教者としてどう生きるかではなく、世の中のことを考えておられます。世の中をよくしたいのであれば、その人は仏教なんか学ばず、政治学・経済学・社会学を学ばれるとよいのです。仏教の教えに対して、変ないちゃもんをつけないでください。
 わたしたちが仏教に学ぶのは、わたしがどう生きるかであって、世の中を改革する方法ではありません。そのことを忘れないでください。

カット・酒谷 加奈

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