天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第120号

インド禅定林大本堂落慶6周年
5万人が随喜して記念法要を厳修

重みを増す大乗仏教の一大拠点
  
 インド・禅定林(サンガラトナ・法天・マナケ住職)では、二月八日、大本堂落慶六周年記念法要を厳修した。日本からは、総長代理である福惠善高一隅を照らす運動総本部長、谷晃昭パンニャ・メッタ日本委員会理事長(群馬教区西光寺住職)ら、大本堂建立に協力した同委員会のメンバー約五十名が参列し、インドにおける大乗仏教の一大道場の落慶六周年を祝った。なお七日には、併設のパンニャ・メッタ学園校舎の増築落成法要も執り行われた。

 禅定林大本堂はインド中央部にあるナグプールから車で二時間ほどのポーニ市ルヤード村にある。大本堂建立は、天台宗開宗千二百年慶讃大法会の記念事業として、サンガ住職を中心にパンニャ・メッタ日本委員会(P・M・J)の支援により着工され、平成十九年に落慶している。 
 着工当初より雨期の洪水など現地特有の諸問題により、しばしば工事が中断し、竣工後も付帯工事の進行がままならなかったが、昨年には大本堂上の相輪も取り付けられるなど、インド仏教徒の精神的象徴としての偉容が整った。
 落慶六周年記念法要は、サンガ住職を導師とし、日本からの出仕・随喜参列者一行とともに、インド全土から参集した仏教徒約五万人が見守る中、厳かに執り行われた。
 法要にあたりサンガ師は「インド各地から、また、日本から多数の仏教徒の方にお集まりいただき、感謝致します。ようやく大本堂も立派な姿になりました。大乗仏教を弘め、菩薩行の中心道場とするべく一層研鑽を積んでいきたい」と述べた。
 全ての生命の平等を説く仏教の発祥の地インド。しかし、カースト制度の壁は今なお厚く、差別と貧困に苦しむ数多くの仏教徒がいる。
 差別の否定と生命の平等の教えをいかに仏教の発祥地インドに根付かせ得るか。それが現実の問題として存在する。
 シンボルともいえる禅定林大本堂が落成して六年。落慶当時、サンガ住職は「インド仏教の心の拠り所とし、伝教大師のみ教えのもと、未来に法を伝える菩薩僧を養育していきたい。智慧と慈悲を兼ね備え、世界平和を祈る依処とするために精進していきたい」と決意を明らかにしている。
 一大道場というべき大本堂が六周年を迎え、インドのみならず、混迷する世界における大乗仏教敷衍の役目を担う禅定林への期待は、ますます大きなものになっている。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

他の人が喜ぶために働くという選択肢もありますよ

池上彰 京都造形芸術大学における集中講義「経済学」より

 ジャーナリストの池上彰さんは、学生達に「これから社会に出るあなたがたは、何の目的で働くのか」と問いかけ、お金を儲けるとか、自分のやりたいことを実現するためとか色々とその理由はあるが、例えば「他の人が喜ぶために働くという選択肢もありますよ」という言葉で集中講義を締めくくったのです。
 普通、働くのは自分のため、あるいは家族のためという人が多いと思います。
 しかし、野菜ひとつにしても「食べる人が喜んでくれるように丹精込めて作る」、「販売するのも、買ってくれる人が喜ぶよう売る」という仕事をすれば、働きがいというか、生きる意味が見えてきますよという意味に聞きました。
 それは、生産、販売だけでなく、この世のすべての仕事にいえることでしょう。
 ある作家がこんなことを書いていました。
 仲間達と中華料理を食べに行ったときのことです。欲しい料理が大皿では多すぎるし、中皿では少なすぎる。どうしようかと考えていたら、ボーイさんが「よかったら、大皿の三分の二にしましょうか。お一人様ずつでお出しできるようにも出来ます。厨房に申しますから」と言うのです。
 すると仲間の一人が、ボーイさんに「君、君は来店したお客さんから『この店を辞めて、うちで働いてくれないかね』といわれるだろう」というのです。ボーイさんは「え、お客さん、よく分かりますね。確かによく言われますよ」と言いました。
 こんな話もあります。
 お昼時に、会社の女子社員が、みんなから頼まれ、代表してハンバーガーを買いに行ったときのことです。
 「ハンバーガーを十八個下さい」「店内でお召し上がりですか」「私一人で、十八個は食べられません!持って帰ります」。

鬼手仏心

般若の顔 天台宗財務部長 阿部 昌宏

  
 スポーツ、特にプロスポーツやオリンピックというジャンルは「真剣さ」を競うものである。
あるサッカー選手が負け試合のあと「ヘラヘラ笑っていた」ということで激しいバッシングを浴びたことがあった。
 「もう試合が終わったのだから、どんな顔していても俺の勝手じゃないか」という言い分は、この場合通らない。
 真剣に勝負していたなら、死ぬほど悔しがるか、茫然自失というのが当然のリアクションである(とチームメイトも観客も思っているからである)。
それが、最近は「美しさ」を競う種目が増えてきた。
 アイススケート、シンクロナイズドスイミング、新体操、等々である。もちろん彼ら彼女らは「真剣」ではある。だが同時に笑顔やフォームの優雅さという「芸術」に点数が入るというところが、私のように「真剣さ」にこそスポーツの醍醐味があると思っている人間には違和感がある。
 近年プロスポーツの選手は、美しい人々が増えた。
 テニス界でいえば、クルム伊達公子選手や杉山愛選手は美人である。
 だが、ひとたび勝負になると、その美しい顔が般若になる。
 相手を打ち砕くために、スマッシュに全身全霊をかけて「うーりゃぁぁー」とラケットを振る時、どのような顔になるかは(失礼)、テレビ、新聞でおなじみである。
 そうして、私はそういう顔こそがスポーツを象徴していると思うのであり、美しいと思うものである。歯をくいしばり、まなじりを決する。人が真剣になるとき、日本人も外国人も同じ顔である。

仏教の散歩道

精進と努力

 仏教講演会に招かれたとき、わたしはしばしば、
 がんばるな! 
 といった趣旨を話します。あるとき、講演終了後、主催者代表が謝辞を述べられ、その中で、
 「わたしたちはひろ先生が言われたように、これからはがんばらないようにがんばります」
 と言われました。会場は大爆笑でしたが、ご本人は聴衆がなぜ笑ったのか、さっぱり分かっておられない様子。それほどに、日本人はがんばるという言葉が大好きなんですね。
 そして、これもしばしばですが、仏教では精進(しょうじん)を教えている、精進とは努力である、それなのになぜ努力してはいけないと言うのか? 
 そういう質問を受けます。がんばるというのは努力することであり、そしてそれは精進することだと、人々は思っているのです。
 だが、それは違うのです。じつは、
 精進と努力
 はまったく違っています。どう違うかといえば、われわれが努力するとき、その背後に努力の成果を査定する、
 物差し
 があります。それは百点満点であったり、金メダル・銀メダル・銅メダルであったり、パーセントであったりしますが、その物差しにもとづいて努力するわけです。
 高校野球で甲子園出場を目指して努力する。そのためには「がんばらねばならない」となります。
 しかしながら、精進にはそのような物差しがありません。物差しがないのだから、達成度は問題でなくなります。どこまで到達しないといけないといったノルマがありません。
 そうすると、人々はゆったりと楽しく、目標に向かって歩いて行くことができます。
 じつは、仏教でいう「精進」は、仏に向かって歩むことです。わたしたち凡夫が、仏を目指してゆったりと楽しく歩む、その歩みが精進です。
 だが、ご存じのように、われわれは仏に到達できません。われわれが仏になれるのは、いくら早くても五十六億七千万年後です。だから、凡夫は仏になれませんが、仏に向かって歩むことはできます。
 一歩でも二歩でも、仏に近づくことができれば、それが精進の成果です。
 だから、われわれがどれだけ仏に近づいたか、その到達度は問題にしなくていいのです。  無限大の距離のもとでは、一歩や二歩、百歩、万歩の差は問題になりません。そんな物差しは捨ててしまって、ただ一歩でも近づくことだけを楽しめばいいのです。それが精進というものです。
 ですから、精進と努力は違っています。わたしは、努力はジョギングのようなもので、精進は散歩だと思っています。
 さあ、ゆっくり散歩を楽しみましょうよ。

カット・酒谷 加奈

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