天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第109号

3.11 祈る、ともに生きる
東日本大震災物故者一周忌慰霊法要/気仙沼・観音寺/三宗合同で

 東日本大震災から一年を迎えた三月十一日、半田孝淳天台座主猊下は、宮城県気仙沼市の観音寺(鮎貝宗城住職)において、犠牲になった方々の「東日本大震災物故者一周忌慰霊法要」を厳修した。
 今回の一周忌法要は、福家英明天台寺門宗管長、西村冏紹天台真盛宗管長も副導師として参加、初めての三宗派合同での慰霊法要となった。

 半田座主猊下が被災地で法要を執り行うのは、昨年五月十一日に続いて二回目。いずれも天台座主としては初めて。
 慰霊法要に先だって、阿純孝天台宗宗務総長はじめ天台宗参務は、甚大な被害を受けた鹿折地区の気仙沼港において読経回向し、犠牲者の冥福を祈った。 
 一周忌会場となった観音寺には、四百名近い遺族が参列し、また全国から天台宗僧侶約七十名が出仕した。今回の慰霊法要には、武者小路千家第十五代家元後嗣千宗屋師による献茶も行われた。
 法則で半田座主猊下は、肉親を奪われ、住居を破壊され、また家はあっても帰れない人々に対して「その思いを忖度するに胸潰れる思いである」と述べられた。
 そして大震災が発生した十四時四十六分には、参加者全員で御十念(念仏)を唱え、物故者の冥福を祈った。
 半田座主猊下が「大地震は津波を伴って原子力発電所の事故を誘発し、各地に甚大な被害をもたらし、多くの尊い人命を奪った。希望と未来を奪い、人々の心に苦難と悲しみを植え付けた。我々は天災、人災の恐怖を知った。しかし、人間は一人ではない。大勢の人に支えられて生きている。今多くの方々が復興に向け力を尽くしている。全国各地、世界から物心両面にわたる支援が寄せられている。各地からのボランティアの人々との間には大きな絆が生まれた。残された皆さまには、心を強く持って欲しい。根底から立ち上がることは難しいかも知れないが、困難な時には手と手を取り合い、手を合わせて神仏に祈りを捧げて頂きたい。必ずや一筋の希望の灯火を見いだせる。どうか一歩一歩ご自身の力で歩み出して頂きたい。私たちもより一層皆様の心に寄り添い、共に歩んで行きたい。皆様に安寧なる時が一日も早く訪れるよう心より祈念している」と述べられると、会場からは遺族のすすり泣きがもれた。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

希望を書かなければだめだ。

角田光代

 作家の角田光代さんはデビューした当初、雑誌の老編集者から「貴方の小説は厭世的すぎる」といわれ続けてきたと書いています。
 子どもの頃から「カッコイイせりふが苦手でしょうがない」「聞こえのいい言葉というのは、なかなかストレートに胸に響かない」と感じていたといいます。
 誰しも覚えがあると思いますが、若い時は、いえ大人になってからも、真っ直ぐに人や物事に向き合うことは気恥ずかしいし、力のいることです。
 だから、ちょっと斜めに構えてみる、それがカッコイイことのように思いがちです。幾つになっても、そのポーズで自分の居場所を確保しようとする人たちがいます。けれども、それではいつまでたっても少数派のままです。決して中心をとることはできません。そう言えば「それで、いいんだ。愛や希望なんて嘘くさいことに真剣に取り組めるか」と言うでしょう。
 角田さんも「世の中はそう簡単にはいかない。空々しく美しいことなんて書けない」というスタイルをとっていました。直木賞にノミネートされて落選したとき、書評の中には、その小説の救いのなさを指摘したものが幾つもあったといいます。
 その時にくだんの老編集者が「なあ、世の中に残っている小説は、ぜんぶ希望を書いているんだ。残る小説にするには、希望を書かなければだめだ」と教えました。長い編集者生活を通じて得た、彼なりの悟りを伝授したのです。
 出版不況と言われながら、毎日おびただしい書籍が出版されています。その中で後世までといわなくても、一年後に読み継がれていくのはどれだけあるでしょうか。誰の心にも残る本とはどういうものでしょうか。
 角田さんは、老編集者の言葉を聞いて「救いはないと断じるのなんて簡単なことだ。そこからなんとかして信じられる救いを掴み出す、そういう小説こそ力を持ち得るのではないか」という思いに至ります。二〇〇五年、角田さんは『対岸の彼女』で第百三十二回直木賞を受賞しました。

鬼手仏心

お金は割り勘、半分こ 天台宗出版室長 杜多 道雄

 
(財)日本数学検定協会が「数学川柳」を募集しました。
 大賞を含めて、いずれも傑作ぞろいですが、私が特に心惹かれたのは「割り切れぬ 気分で彼と 割り勘に」(大阪府岸和田市 月野ひろこさん)です。
 男の立場から言えば、彼氏、しっかりしろよ、おごってやれよ、そうか、お金ないのか、なくてもさ、見栄はれよ、といいたい。
 それともデートの費用は男性が支払うものという価値観は、もう古いのでしょうか。
 今の若者たちの世界は、もっとクールなのかもしれませんが、この川柳を読めば「やっぱり女心は割り切れてないんだな」と思います。 
 世は、草食系男子がはびこっていると聞きます。
 草食系男子は「私は、弱者です。被害者です」というフリをすることで、自己利益をはかっている人々だというシビアな指摘があります。
 ここでは「お金は割り勘、半分こ」ということで余分な支出を抑え、利益をはかるということでしょうか。セコいではないか、そんなことでは日本の未来は暗いではないか。 
 特に恋愛においては、彼らはとにかく傷つくことを回避するそうです。「キミがいうなら、いいけど。ま、僕はどっちだっていいんだけどさ」という責任を回避したモノの言い方。そのくせ、内心は、どちらに転ぶかドキドキもの。しかし、自分の意志をハッキリさせた場合、吉と出ても凶と出ても、それなりに自分を出さなければならない。それは嫌なのだ。
 いいかな、傷つくことなしに、本物を手に入れることなんか出来ないのだよ、と僧職系のおじさんとしては厳しく指摘しておきたい。

仏教の散歩道

「南無」の意味

 会社の人事に関して、ときに上司から「きみの処遇については、わたしにまかせてくれないか」
 と言われることがあります。部下にすれば「いやです」とは言えませんから、「はい、おまかせします」と言わざるを得ません。
 逆に上司が部下に「きみにこの仕事をまかせる」と言うこともあります。
 ところで、問題は、いずれの場合もそうなんですが、まかせた結果が自分の気に入らなかったときです。そのとき、たいていの人が
 「わたしはあの上司(あるいはあの部下)を信じていたのに、彼はわたしを裏切った」と思うでしょう。つまり、相手が自分の期待に反する行動をしたとき、それを「裏切り」と受け取るのです。
 だが、そういうのはおかしいと思いませんか。少なくともそれは、相手を信じたわけではないし、また相手にまかせたことになりません。あくまでも自分の欲望・願望が優先されているのです。
      *
 じつをいえば、わたしは仏教のことを考えています。仏教では“南無”という言葉があります。「南無阿弥陀仏」「南無妙法蓮華経」「南無釈迦牟尼仏」といったふうに使われる言葉です。
 この“南無”という語は、「信じます」「おまかせします」といった意味です。「南無阿弥陀仏」は、阿弥陀仏を信じ、阿弥陀仏におまかせすることです。「南無妙法蓮華経」は、妙法蓮華経(すなわち法華経)を信じ、その法華経の教えにおまかせすることです。
 たとえばあなたが病気になりますね。そして、あなたは「南無阿弥陀仏」を称え、すべてを阿弥陀仏におまかせします。
 ところが、あなたの病気は治りません。かえって重くなります。そのとき、あなたはどう思いますか?もしもあなたが
 〈わたしは阿弥陀仏におまかせしたのに、阿弥陀仏はわたしの願いを聞いてくれなかった。わたしは阿弥陀仏に裏切られた〉
 と思ったとしたら、あなたは阿弥陀仏を本当に信じたとはいえません。あなたは阿弥陀仏を、自分の都合通りに動いてくれる手下として利用したかっただけです。
 もちろん、そういうのを本当の信仰とは言えないことは、お分かりになっていますね。
 わたしたちが「南無阿弥陀仏」「南無妙法蓮華経」をお唱えするときには、
 ─いかなる結果になろうと、わたしは文句を言いません。与えられた結果を最善のものとして受け取らせていただきます─ といった覚悟が必要です。その覚悟なしに念仏や題目を唱えている人は、念仏や題目を呪術的な呪文と思っている人です。
 あなたは、そのような勘違いをしていませんよね。

カット・酒谷 加奈

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