天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第13号

知りたいことがすぐそこに-天台宗公式ホームページ開設へ-

現代社会に広く浸透してきた情報技術(IT)に対応して、天台宗の公式ホームページが開設される。このホームページは、天台宗総合研究センターの研究班が、一年半の研究と準備をかけたもので、昨年には関係者による「試写会」も行われ、四月一日にネット上にオープンされる。

-社会のニーズに応えて-
天台宗がホームページを開設したのは、実は数年前に遡る。それも一隅を照らす運動総本部が開設したホームページを、試験的に公式ホームページとした暫定的措置であった。
 しかし、開設後に起きた日本海重油流出事故の際、仏教青年会を中心に、回収ボランティアの募集、現地レポート、情報伝達の即効性など、当時の宗団の実務から考えると、画期的な成果を上げていた。
 当然、宗の内外から公式ホームページの開設や、ネットワーク化の必要性を論じる声が高まってきた。
 平成十四年に、天台宗総合研究センターが開設され、ホームページの開設や、ネットワーク化に向けた研究が課題に加えられた事は、時代の要請であった。

-4月1日公開-
今回天台宗が開設するホームページの主な目的は、現代社会に欠落している倫理、道徳心そしてその根底にある宗教心を広く喚起し、仏心の目覚めを生活の中に浸透させることにあるが、インターネットを通じて、開かれた天台宗を広くアピールできるというメリットが大きい。
 ホームページでは、天台宗のほぼ全部の内容を閲覧することができる。専門分野の難解になりがちな内容をさけて、写真や映像、音声をふんだんに採り入れ、パソコンの初心者にも操作が簡単にでき、画面が見やすく工夫されいるのが特徴である。
 一般を対象にした内容では、仏教の教え・天台宗の歴史・法要や声明、全国の天台宗寺院・僧侶になるには・出版刊行物の紹介など必要かつ充分な内容。
ホームページで声明が聴け、行者の修行が動画で見られるなど、これまで間接的にしか知られていなかった内容が、直接自分の目や耳で確かめられる。
 また、檀信徒のお勤めの作法と心得や、Q&A、法話集など日々の生活の中に密着したコーナーも充実しており、天台宗の新しい布教活動として注目される。
 これらのIT活用にあたっては、天台宗の全寺院に、パソコンやインターネットの利用率等をアンケートし、問題点も考慮されつつ進められてきた。
 今後内容更新は天台宗総務部が担当し、常に新鮮な情報を掲載する。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

 この世には根性を貫いたがゆえに、敗れ去った人だっていっぱいいる。
 純粋であればあるほど、この世では敗れざるを得ない。
 まったく無名の人物でも、素晴らしい、己を貫いた尊敬に値する人物はいっぱい存在したはずだろう。そういう人間の運命の方に、ぼくは加担したいな。

「強く生きる言葉」 岡本太郎  イースト・プレス刊

人間ていいな、と思うのは、爽やかな生き方をしている人に出会った時だ。
 私たちは凡夫だから、有名人の生き方に感動を覚えることが多い。
 しかし、世に名前のある人は、私達と違う別の世界に生きていて、とっても近寄れないような気がするのも、本当だ。
 一方で、ただひたすらに黙々と生きる人を素晴らしいなと思う時がある。それは、その人の中に侵しがたい力があるからだ。世間におもねらず、他人のマネをせず、そんなことには全く無頓着に自分の生き方を貫いているからだ。
 生きることの意味は、その結果よりも過程にある。いかに自分の志を曲げずに歩き続けるかということだ。宗祖のご生涯に照らすまでもなく、襟を正さなくてはならない。
 正しいと思うことを中々言えない世の中だ。いや、自分に意気地がないというより、純粋でないから言えない、というのが正解かな。
 世間の目からは、敗れ去ったように見える人々も、実はそうではない。黙々と生きる人々に私たちも加担したい。「敗れざる人たち」に-。

鬼手仏心

「少年A」に 天台宗宗務総長 西 郊 良 光

 
 平成九年の神戸・児童連続殺傷事件で保護処分となっていたあなたの医療少年院仮退院が決定した。正直な気持ちをいえば、戸惑う思いだ。
 「心の闇」は矯正されたのか、性的サディズムは克服されたのか、再犯性はないのか、と危惧する。もちろん私は、仏教者であるから、み仏の慈悲は、あまねく全ての人々にあると信じている。亡くなった方々のご冥福をお祈りすると共に、あなたの更正を切に願っている。
 だが、同時にひとりの社会人として、あれだけの事件の後遺症から、私自身が未だに抜け切れていないことを認めないわけにはいかない。
 人間の性質は本来善であるが、規範が狂い、生命を軽視することによって、どれだけ惨いことをするのか、その現実の前に立ちすくんだ。
世間には、いのちの価値を安売りするようなゲーム、コミック、ビデオという仮想現実(バーチャルリアリティ)が氾濫している。仮想の世界では、いのちはリセットしたり買い換えたりすることで簡単に「再生」できる。それを情報化社会というなら、その代償に、我々は青少年の精神がどれほどまでに壊れることが出来るか、悪をなすことが出来るのかを、あなたの事件を通じて見せつけられたともいえる。
 あなたは、立ち直る機会を与えられた。そのことを充分に生かして欲しい。同時に、今後の人生は、殺傷した人々のいのちの重さと向き合って生きることになる。罪を償いながら生きてゆく日々の中で、苦しい時はあるだろう。いや、その連続だろう。
 私は、み仏に向かい、あなたが殺傷した人々のために、残された遺族の皆様のために、このような事件が再び起こらないように、そしてあなたの魂が安らぐ日が訪れるように、祈る。

仏教の散歩道

ほとけさまは半眼

 "明"という漢字は、"日(太陽)"プラス"月"だと思っていました。だから「明るい」のだと。
 けれども、それは素人の解釈であってまちがいです。白川静『字統』によりますと、この字は"冏"と"月"の組み合わせです。そして"冏"は「窓(まど)」であって、窓から月光が入り込むのが"明"なんです。
 そういえば、昼間、太陽と月が一緒に出るわけがありませんし、たとえ太陽が出ているあいだに月が出ることがあっても、そのときの月はちっとも明るくありません。いや、そもそも月そのものは発光体ではなく、太陽の光を反射しているだけなんです。
 まあ、ともかく、"明"という字は窓から入り込む月光の明るさなんですね。それほど
明るいわけではない。むしろ薄暗い感じです。
 それでちょうどいいのです。というのは、わたしはここで、中国古典の『近思録』(巻十二)の言葉を思い出すからです。
 《(めい)極(きわ)まればすなわ則ち察(さつ)に過ぎ、疑い多し》
 明極まるというのは、ものごとがあまりにもよく見えすぎることです。そうすると察に過ぎます。観察しすぎるわけです。それで疑いが多くなるのです。
 その通りですよね。たとえば、美人の肌を虫眼鏡でもって拡大して観察してごらんなさい。百年の恋もいっぺんに醒めてしまうでしょう。窓から入って来る月明かりでもって見るのがいいのです。
 つまり、あまり情報量が多くなってはいけないのです。
 そう考えると、坐禅のときに目を半眼にすることの意味が納得できます。目をつぶってはいけません。そうすると眠くなります。かといって、目をかっと見開くのもよくない。半眼に開くのです。
 また、仏像においても、ほとけさまはほとんどが半眼です。かっと目を開いているのは、お不動さんだけでしょう。お不動さん、すなわち不動明王は大日如来の使者で、仏教の世界でいわば警察官の役目を担った存在です。だから、目をかっと開いておられます。しかし、慈悲の存在である如来や菩薩は、そんなに目を開いてはいません。半眼にして情報量を少なくしておられるようです。
 だって、わたしたち人間はみんな欠点だらけの存在です。虫眼鏡で拡大するまでもなく、かっと目を開いて見られるならば、欠点ばかりが大写しになってしまいます。ほとけさまは慈悲のこころでもって、わたしたち人間の欠点を見ないように、いいところだけを見るようにしてくださっているのだと思います。
 わたしたちも他人を見るとき、あまり目を開いて見ることをやめましょう。他人を半眼で見るのが慈悲のこころではないでしょうか。

カット・伊藤 梓

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