
数年前の出来事です。コロナ禍があけて天台宗の各寺院と檀家代表が集まる研修会が、久しぶりに開催されました。
その懇親会の席で、ある檀家さんがふと問いかけられました。
「みなさん、“ありがとう”の反対の言葉は何だと思いますか。」
突然の質問に、会場は静まり返りました。
「反対の言葉」と言われると、つい否定的な言葉を思い浮かべてしまいますが、誰も確信を持って答えることができません。
しばらくして、その方は穏やかな口調でこう続けられました。
「答えは、“あたりまえ”です。」
その瞬間、場の空気が少し変わりました。
「ありがたい」は「有り難い」と書きます。
“あることが難しい”、つまり本来はめったに起こらないことへの感謝の心です。
しかし私たちは、身の回りの多くのことを、いつしか“あたりまえ”だと思い込んでしまいます。
この問答は、日々の生活の中で忘れがちな視点を、そっと思い出させてくれました。
さて、皆さんは今朝ご飯を召し上がりましたか。
その食事は誰かが用意してくれたものでしょうか。
あるいはご自身で作られたものでしょうか。
どちらであっても、その食事が目の前にあるということは、実は多くのご縁が重なって成り立っています。
農家の方、運んでくれた方、売ってくれた方、そして調理してくれた方。
それらすべてが揃って、ようやく一膳のご飯が私たちの前に届きます。
しかし、忙しさに追われる毎日の中で、私たちはその“ありがたさ”をつい忘れ、「あって当然」と思ってしまいます。
仏教では、ものの見方を正すことで、本当の気づきが生まれると説きます。
同じ出来事でも、心の向け方ひとつで世界の見え方は大きく変わります。
だからこそ、普段の生活の中で、お寺や神社、お仏壇の前に立ったときには、まず一言、
「ありがとうございます。おかげさまで今日も生きています。」
と手を合わせてみてはいかがでしょうか。
その一言は、私たちの心を“あたりまえ”から“ありがたい”へと静かに戻してくれます。
今でも信じられないようなコロナ禍という非日常を経験した私たちは、普段の生活がどれほど貴重で、どれほど支えられていたかを身に染みて知りました。
当たり前だと思っていた日常が、実は奇跡のような積み重ねであったことに気づかされたのです。
その気づきを忘れずに、今日一日を「ありがたい」と感じながら過ごすことができれば、きっと心は穏やかになり、幸せな一日へとつながっていくのではないでしょうか。
(文・九州東教区 東泉寺 寺田 豪淳)