天台宗について

法話集

No.200煩悩即菩提の生き方

 ダムに水を貯めるか貯めないかという問題は答えが一つではない。上水道に水が送られるにはダムを必要としている。日照りが続くと貯水量が減り、みんなに節水を求めていく。大雨の時は川に水があふれ流れ出るのを防ぐため、水を貯える。だが、貯水量をはるかに超えてしまうと堤が崩壊してしまうこともありうる。その対策として、ダムに流れ込む水の量を抑制するため、田んぼや広場が小さな貯水池になるのも必要である。その他、ダムに貯めた水を大量の水が流れこむ前に事前に放流しておく場合や、貯まっていないダムを用意するなど柔軟な対応が求められている。

 また、夜空に浮かぶ星は、「これが」と手に取って確認できない。だが長い時間をかけて光が届き、今、私の目で眺められ、このような星が輝いているとわかる。それを確認したとき、存在を具体的に認識する。しかし自身の目に光が届いたその時には、光を放った星はもう既に消滅している場合もある。

 人間にとって「心の支え」「仏の見守り」とはこれに似ている。存在が認識できるものは「ある」といい、認識できないものは「ない」と言い切っていいのだろうか。「境あるとしているは己の心なり」私の周りには多くの見守りがあって、そこでようやく生きている姿でもあります。自己中心に振舞いたい人には自分の意と異なると、対峙する敵の抵抗力、邪魔としか見えない。それを何とか打ち砕こうと必死になってしまう。そんな事件があちこちに発生している。「人の為に尽くせることは幸せである」欲望に任せ、わがままを成就しながら生きたいと進む時は一生懸命になれる時もあれば、時がたつとペースを崩したり、嫌になったり、諦めたり、怠ける時も出てくる。しかし、他の人の喜ぶ笑顔を生み出したいとの目標を持つときは、自分のペースはさておき、相手の状態、期待に応えようとするから、自分の都合では進めない。人と共に、励めたのを振り返ると清々しい気持ちになれる。己とはどんな姿なのか。どこまでが己なのか。とても答えは出ない。独自では己の評価が卑下し落ち込んだり、過大に評価して有頂天になり、己を見失う。片方がよくて、片方は捨て去るべきものではない。どちらもあり得ることを踏まえて、あれこれと求める「己れ」に気付きながら生きよう。


(文・兵庫教区 龍藏寺 上阪 法山)
掲載日:2020年12月01日

その他のおすすめ法話

ページの先頭へ戻る