天台宗について

法話集

No.62依身(えしん)より依所(えしょ)

 今から一千二百年前、比叡山を開かれた伝教大師最澄上人は「六根相似(ろっこんそうじ)の位を得ざるよりこの方 出仮(しゅっけ)せじ」という言葉を残して、敢然(かんぜん)と比叡山に籠もり修行に明け暮れました。六根相似とは、見たり聞いたり、考えることなどが、ほとんど仏さまと同様になることです。すなわち六根が清浄になることです。出仮とは、山から下りて社会に出て僧侶として働くことです。このようにして比叡山で厳しい修行をした最澄上人は、なぜ修行の場に比叡山を選んだのでしょうか。その理由のひとつに、中国のお釈迦さまといわれた天台大師の修行の指南書(しなんしょ)『摩訶止観(まかしかん)』の中に「閑居静処(げんごじょうしょ)・息諸縁務(そくしょえんむ)」などと書かれているところがあげられます。人里離れた静かなところで、社会的つながりを一時的に断って、集中的に修行することの大切さを説いているのです。そして比叡山について最澄上人は次のような歌を詠んでいます。
 「おのずから住めば持戒のこの山は、まことなるかな依身より依所」
修行には自分自身が正しくあろうとすることが大切であるが、それよりも修行をする環境がもっと重要であることが、修行を通じてはじめてわかる。この比叡山とはまことにその修行にふさわしいところで、住んでいるだけでおのずから戒律を守ることができ、六根が清浄になるところだ。
 という意味です。
 先頃世界遺産に登録された比叡山は、一千二百年の間その伝統を脈々と伝えてきたことが高く評価されました。その森厳な環境があってこそ、はじめて仏教の母山としての面目が保たれてきたのでしょう。人間だけがひとりよがりで頑張ってみても、おのずから限界があることがわかり、私たちを取りまく環境は、私たちの鏡でもあるのです。環境が荒れていることは、すなわち私たちの六根に異常を来たしていることを意味します。この厳しい警告を謙虚に受けとめ、私たちを育んでくれる環境に改めて深い想いをめぐらそうではありませんか。
掲載日:2009年04月23日

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