
平成十六年十月一日付の『天台ジャーナル』の4、5ページの見開き一面に私の父が取り上げられた事がある。
感音性難聴という特殊な病気によって完全に聴力を失い、不自由な中、住職をする日常の描写だ。
当時の天台宗出版室編集長が自ら取材に訪れた。
ただでさえ聴力を失った人間からの聞き取りは困難を極めるが、私の父は中々のせっかちで質問を書こうとするその矢先に文面を見て言葉を発し、随分と大変な取材のようだった。
記事の内容は子供の頃から片耳が不自由な父が段々と聴力を失い、平成七年七月に「聴神経腫瘍」の摘出という大手術を受けて命を拾うものの完全に聴力を失う過程や、その後の住職、並びに布教師としての活動。叡山での修行時代の話など多岐に渡っていた。
なんでも正直に話す父はその当時、耳が聞こえないままバイクに乗っていたこともそのまま語っていたが、流石にそれはと公安委員を務める識者からクレームが入りその分は削除された。
この取材を受けて自分のことが記載された父は『天台ジャーナル』を親しい檀家や友人に配って歩き随分と上機嫌だった。
その父の没年は平成二十二年だったが、その頃父のものを色々整理する必要があり様々な手紙等にも目を通した。
毎年父宛に来る年賀状の中には「その記事を見て、随分と勇気づけられました」という不特定多数の人からのものもあった。
平成七年、「聴神経腫瘍」の摘出手術を受けた「久留米大学病院」の脳神経外科で父は私とは正反対の社交性の良さで耳が全く聞こえぬ状態で様々な人に持ち前の大音量で話しかけていた。
中には父と同時期に入院して結局インオペ状態で転院して亡くなった男性の奥さんとか、頭部を怪我した小学生の子供とか色々な人が退院の頃に父のことをよく話してくれたものだ。
中でも交通事故により頭部を怪我した息子さんを看病していたお母さんは「お父さん」に助けてもらったと熱心に話をしてくれた。
意識がない息子さんを集中治療室の近くで一週間余り見守りその後も眠れぬ日々を過ごし、漸く一般病棟に戻った時、父は一枚の紙を渡した。
「これも勉強」とボールペンで大きく書いてあったそうだ。
父なりに「諸法は実相なり」と諭したのである。
(文・九州西教区 岩藏寺 中村 博信)